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訪問4コマ漫㊷「頑張る姿はオリンピアン級」

今年の夏は暑い。
そしてさらに熱を帯びる出来事としてパリオリンピックが開催された!
この記事を書いている最中、各国代表選手が様々な想いを背に戦い、その想いが我々を感動させる。そして興奮させる。
こんなに興奮したら暑いったらありゃしない。

選手たちの努力を惜しまず練習を重ね、目標に向かって突き進む姿。

ふとSさんの姿と重ね合わせてしまった。

Sさんは芯の通った男性であった。

S様は「黄色靱帯骨化症」という難病を抱えていた。
黄色靱帯骨化症とは、、、
脊髄(神経)の後ろにある黄色靱帯という靭帯が、骨化してだんだん大きくなってしまい神経を圧迫して、おもに足の麻痺を起こす病気である。足のしびれや、歩きにくさ、膀胱の働きの低下が認められる病気だ。

私がリハビリで初めてお会いした時はすでに下肢の麻痺が進んでおり自身で動かすことができず、室内でも車椅子を使っての移動であった。

白黒はっきりした性格で、難病であるにも関わらず申請するのが億劫だ!という理由で難病申請も断り、自身にとって何が必要だ!これをしてほしい!などはっきり伝えることができる人だった。

リハビリ介入した際もSさんからは
『これ以上、体を悪くしたくない。良くしたい。そのためのリハビリをやって欲しい』と
はっきりとおっしゃった。

そしてSさんの素晴らしいことは、決して受け身ではなく、積極的で努力家で、そして何より今まで出会った方の中で1番と言っていいほど野心がある方であった。

Sさんは奥様が先に旅立たれ、男1人住まい。しかしできる限りの身の回りのことはご自身で行なっていた。炊事洗濯も行なっていた。本人曰く、思いの外家事が好きだったと。自分の新たな一面を面白おかしく教えてくれた。

Sさんは両下肢が動かないため、室内も車椅子である。
皆さんは両下肢に力が入らない状態で車椅子からベットへの移動できるだろうか?

上肢の力を使い、お尻を浮かすようにして移動する。またはスライディングボードをお尻の下に敷いてお尻をズリズリと移動させながら移動する。
理屈は簡単であるが実際やるのは非常に大変だ。

Sさんは当時すでに80代。
しかし上半身はすこぶる鍛えておりベットの下にはとても高齢者の部屋にはそぐわないダンベルがゴロゴロと転がっていた。

『めっちゃ重たいダンベルありますね。』

何気なく言葉を交わすと

『自分で車椅子乗れなくなったら困るからね。』

と。
毎日鍛えているようだ。

そのため移乗動作もヒョイっとやってのける。

そして、リハビリ時間はいつも楽しく一生懸命だ。
一生懸命に頑張る姿に、指導したことを真摯に取り組む姿に、リハビリ冥利に尽きる想いでいっぱいであった。

Sさんとリハビリを重ねるなかで、ふと壁に飾ってあった車の写真に気がついた。

「Sさん、この車めちゃかっこいいですね。」

車好きだった私もついつい写真に食いついてしまった。

するとSさんは
「かっこいいでしょ、元気な時に乗ってたんだよ。」

「もう足が動かないから無理なんだけど、本当はまた車に乗って運転したいんだ。」

「こんな身体になって、本当に悔しい。」

と話してくれた。
普段は見せない姿だった。

「ヘルパーさんとかも、1人で色々頑張ってすごいですね。とか言ってくれるけど、本当はいろいろ悔しいんだよね。こんな身体になって」

私はすぐに言葉を返すことができなかった。

なぜなら、
いつもSさんの難病を患っても頑張る姿や、80代の人とは思えない身体能力など、見えている部分ばかりみていた。

「すごいですね。」とか「頑張ってますね。」とか声をかけていた。

それがSさんにとっていい事だと思っていたからだ。

Sさんが見せた、いつもと違う姿はそれっきりでそれ以降もいつもと変わらず努力を惜しまず、前向きにリハビリを取り組んでいた。

在宅現場では本人のやる気を出してもらうためや、頑張っていることを認める、共感するために前向きな言葉を書けることが多い。

しかしそれだけでは本人の気持ちを汲み取ることができているのは言えないと切に感じた。

よく、共感力とか、相手の気持ちに寄り添うとか介護や医療の現場では聞くが、真の意味での共感するとはどういう接し方なのか、いま一度考えるきっかけをいただいた。

ある時、Sさんが移乗動作の時にうまくスライディングボードがはまらないと相談受け、私がレクチャーしながら指導する時があった。
Sさんとは別の理由で私は自分のお尻の下にスライディングボードを敷くことができなかった。残念な状態である。。。

「Sさん、ちょっと私うまくできないんですけど、こーすればお尻の下にボード挟めると思いますよ。」

「そだね、僕よりお尻の肉が沢山あるからね。」

Sさん、そこは共感力、いや察して欲しい。。。

それからしばらくして、私は担当を離れてしまったが、、、
Sさんはきっと今も努力を続けているだろう。
その姿は、オリンピック選手にも肩を並べると私は思う。

その努力の先にぜひカッコいい車を運転していているSさんがいることを今も願っている。

2024.09.11

訪問4コマ漫画㊶「生きることへの執着心」

今年も暑くなりそうだ。
ほんとに暑くなりそうだ。
先日、夏の象徴「サザンオールスターズ」が夏フェス卒業を発表された。理由は『高齢者バンドにとって、令和の夏は暑すぎるよ』と。サザンも警告している。
我々が警告するよりもよほど効果がありそうだ。(笑)

最近、とある利用者さんが発した言葉がえらく脳裏に刻み、ついつい思い出してしまう。

その方は生まれつき先天性の病気を患い戦ってきた。ご自身でできることは行なっており、福祉用具やヘルパーを利用し自立した生活を送ってきた。しかし、病気ゆえ骨が脆く骨折。今までできていた事が急にできなくなり、また焦りと不安で精神的にも不安定になっていた。

本人にお会いした際、本人の中であらゆる可能性や今できる事など考え、より一層頭の中が整理できず決断できない状態になっていた。

本人から「いろいろ相談しているのに何も決められなくて、、。生きる事に執着心が強くてすみません。」

と。

『生きる事への執着心』

その気持ち、訴えに私は答えてあげたいと切に感じた。

普段私は『生きてる〜』と感じることはあるだろうか?

えっ!?仕事終わりにカラッカラの身体にビールを注入する時!?ですって??

確かに!生きてることを実感する。

医療、福祉に従じる者として『生』と『死』は隣り合わせ。
特に在宅でのリハビリでは生きること→生活すること→人生を送ること。

と私は感じている。

しかし現場では、対処療法になってなかろうか?
と振り返る。
原因に対して、最たる方法、リハビリを提供する。

・痛みがある→痛みをとる治療を行おう!

・筋力が低下して転倒リスクがある→筋トレ、自主トレをしよう!

・歩く事が不安定→歩行器を導入しよう!

とまぁこんな感じだろうか?

果たして、先ほどお話しした利用者さんはこの対応で生きることへの執着心は満たされるのだろうか?

難病だったり、動脈瘤だったり、どこかしら身体に不安がある人はその事への不安や心配ゆえQOLが下がるという研究があるそうだ。

つまり、いくら身体的に、環境的にベストな方法を提案しても不安や心配事へも向き合わないとQOL、本来の「生きる」ことへ支援にはなってないのかも?と。

生きる事への執着心

その置かれた立場、生きてきた経緯や環境で「生」への向き合い方はいくつもあるだろう。

どの向き合い方をしても尊重し、寄り添っていけるようにしていきたいと思う今日この頃た。

2024.09.11

訪問4コマ漫画㊵「上手い」療法士って??

「上手い」療法士って??

4月もあっという間にすぎてしまった。
訪問業務の良いところは、行く先々で花見ができることかもしれない。

皆さんは今年の桜は楽しんだであろうか?

さてこの4月、私も理学療法士になり17年目。
先日、同期と話ながら
「あっという間だねー。」

「いま、国家試験受けたら落ちるよね笑笑笑」

なんて話を交わしたのだが、
理学療法士という資格を持ち働く場所は病院や在宅、施設と様々あるが理学療法士一年目の私は、まさか自分が将来訪問業務に携わっているとは思いもよらなかった。

先日ニュースで、「入社したばかりの新入社員がもう退職⁉︎」なんて報道を聞いた。

びっくり‼︎したのはもちろんであるが全く共感できないわけではない。

私も理学療法士一年目のころ、描いていた理学療法士と先輩方の働く姿、また現実を目の当たりにして「なんか違う。」とか、「こんなはずでは。」という気持ちがあったのは正直な気持ちだ。

当時の私は「上手い理学療法士」になろうと思っていた。

「痛みもとれて、患者さんを良くする理学療法士。」
オールマイティな理学療法士を目指していた。

まだまだ青いぜ。あたし。

痛みはとれないし、患者さんとうまくコミュニケーションがとれない。
良かれと思った指導が定着しない。

幾度となく壁にぶち当たり、悔しい思いもした。
仕事中にトイレに逃げ込み、奥歯をぐーーっと噛んだことも。

理学療法士という仕事が嫌になることも沢山あったなぁ。と今は懐かしく思う。

さて、ここで上手い理学療法士とはなんだ?と自分に問いただす。

私が一年目に描いていた「上手い」とは技術のことであり、理学療法士としての知識や技術面ばかりを磨こうと思っていた。それが患者様のためにつながると思っていた。

私もこの17年の間に、現場を経験し、後輩を指導し、リハビリチームの管理者を経験し、
いわゆる患者様、利用者様にとってのリハビリは我々が単に技術を提供するのみではよくならない事を経験し感じたのである。

とある療法士は目に余るところが色々あり大丈夫かな?と思っていたが、認知症の患者様とのコミュニケーションがうまくリハビリを進めていくのがうまかったり。

とある療法士はすごく知識も技術も豊富なのに、利用者様からクレームや担当変更の要望があったり。

なかなか難しいのである。

今、私が思う上手い療法士、そして今後目標とする理学療法士像は、

『明日が楽しみだ』という気持ちを持ってもらえるような関わり方ができる理学療法士だ。

痛みがとれた!歩けるようになった!という技術面はもちろんのこと、前向きな気持ちになったり、次回が楽しみになったりするような関わり方をしていきたいと思う。

私が理学療法士の免許を取得し、さぁ4月から働くぞ!という場面で祖母が言った一言は今でもよーーーく覚えており、

『年寄りには優しくするんで。優しくされると嬉しいけんなぁ。』

当時は『優しい』の意味をそのまま受け取っていたが、今は深く深く『優しい』の意味を考える。

話は戻るが、先ほどの同期との会話の中で良かれと思ったことが仇となった話を思い出し、吹き出したことがある。

入浴動作指導の際、
安全面を考慮しシャワーチェアやバスボードなどの福祉用具を提案、購入を進めた。

するとその利用者様から

『○○さんに椅子を買えと押し売りされた。』

と病棟で噂になってしまった。

看護師さんからも、

「○○さんが、リハビリの時に椅子を売られそうになった!って他の患者さんに話してたわよ。」と笑いながらつたえてきたっけ、、、

押し売りって、、、と当時は半分笑い、半分悲しくなったが、今となっては笑い話である。

2024.09.11

訪問4コマ漫画㊴「写真の整理をしていると、、、」

 

写真の整理をしていると、、、

桜の季節になってきた。
今年の桜は当初予定していた開花の時期よりも遅くなり、のんびりしてるなーという印象であろうか。

前にも話したが、桜の季節は利用者様を外に連れ出すにはもってこい!の季節であり、

また猛暑と呼ばれる時期が来るまで、いや梅雨の時期までが1年間を通して利用者様を外に連れ出すゴールデンタイムだ。

利用者様の中には知らない地域の施設に入っていたり、自宅から出たくても家族に頼めないとか、一人では心配で外に出れないといった理由で籠って生活を送っている人たちが多くいらっしゃいる。

ぜひ、そういう気持ちを抱いていたり、なかなか外に出れない方にはリハビリを上手く利用して欲しいと思うくらいで。。。

さて、私はよくリハビリ中に写真を撮る。

普段と違う環境や状況で見られる利用者様の表情は穏やかでにこやかで、そして撮った写真をご家族と共有してすると、とてもとても喜ばれるのだ。

先日、いままで撮り溜めた写真を整理していると、ちょうど今から7年前、2017年に撮った写真が出てきた。

東京の某有名桜スポットにて、車椅子を押しながら出向いた時の写真であった。

7年前の私はもちろん若く、現在の衰えと比較してゾッとしたのは言うまでもないが、、、

図々しい私は周りの人にシャッターを押してもらい、ツーショット写真を撮っていた!

ニコッとピースサインをしながら映る利用者様。しみじみいい写真だなーと感じる。

ツーショット写真を撮った利用者様はいまもお手伝いをさせてもらっている。

しかし当時と違うのは、桜の季節になってもなかなか一緒に外に出られる状態ではなく、窓を開けて春の空気を感じるのが精一杯ということだ。

訪問リハビリで関わる利用者様は多岐にわたるが一人一人長くお付き合いさせてもらう方が多い。

病院勤め時代は入院中という限られた時間の中でのお付き合い、リハビリが主になる。

在宅現場では退院などの決まった期限はなく、利用者様によっては年単位でのお付き合いがほとんどだ。

私も長い方だと10年お付き合いさせてもらっている方もいる。

まさに人生の一部に関わらせてもらっているといってもいいだろう。

その時、その時で何がベストなのかは変わってくる。優先順位も変わってくる。
場合によってはリハビリの必要性も無くなってくることもある。

今日も私は、一緒にピースサインをした利用者様のリハビリを行なっている。

ピースサインをした頃はちょっとした会話も楽しんだ。
今は意思疎通が難しく、関節拘縮予防などリハビリの目標も変わってきた。

でも気持ちは変わらない。
今年も春を感じてほしい。
外に連れて行くことは難しいかもしれないけど、「春になりましたねぇ」なんて声をかけても、「いい季節ね」なんて、返事はもらえないかもしれないけど、
以前と変わらぬ気持ちで一緒に春を楽しもうかな。と。

そう思いながら、早く咲かないかなーと窓の外を眺めつつ、いろいろか思い出をふと思い出す今日この頃のリハビリであった。

2024.04.21

訪問4コマ漫画㊳「スーダラ節と私」

先日、私が自身が治療を受ける機会があった。日頃の不摂生にて身体はボロボロになっているのは言うまでもなく、医者の不養生なんて言葉もあるが、まさしく「リハビリ不養生」状態であり、胸を張って利用者さんに健康をお伝えする資格は、、、?と反省をしたのであるが。。。。

治療の中で先生からは、日頃からあーしてください。こーしてください。
という指導、アドバイスをいただいた。

日々忙しくしている私にとって、先生からの指導は有り難いものではある一方、「先生、、、無理っす」と心の中で唱えてしまった。

私自身の生活の中に組み込むことができず、先生からの指導もついつい右から左へ〜と抜けてしまう感覚を持ったのだ。

ふと、自分のリハビリ場面を思い出す。
なかなか自主トレが定着しない方、生活指導が守れない方などいままでたくさん出会ってきた。

もちろん本人の意識の問題、意欲の問題。

良くなりたいと思うなら頑張りなさい!

と言ってしまえばそれで終わりであるが、果たしてそれは適切な指導、利用者と向き合うことであろうか?

私が理学療法士の免許をとり始めて担当したKさん。
70代で糖尿病により下肢の切断を余儀なくされたKさんのことを思い出す。

緊張いっぱいの新人PTの私。

下腿切断という術式にてどうしても膝が曲がって固まりやすい。

糖尿病の影響により切断部の傷口の治りもあまり良くなく、糖尿病の治療をしながらリハビリを行っていくという状況であった。

義足をつけて歩けるようになることをひとつの目標としリハビリも実施していった。

ある日リハビリの時間になりK様を病室に呼びに伺った。

カーテンを開けると、私に背を向けた状態で丸くうずくまるKさんを発見!

「リハビリの時間ですよ〜。」

声をかける。

振り返ったKさんの手にはあんぱんが。そして口いっぱいにあんぱんを頬張り、バツの悪そうな表情を浮かべる。

「Kさん、あんぱんなんて食べたらだめですよ!看護師さんに怒られますよ!」

私が声をかける。
するとKさんは、、、

「やめられねぇんだぁぁぁ。」

とこぼす。

まさに植木等の『スーダラ節』が私の頭の中を流れる。

「わかっちゃいるけどやめられねぇ」

その時、新人の私は、こりゃ治らないなーとそこまでしか思考を巡らせることができなかった。

しかし今の私は、PTとしての経験を積み、訪問という人生の現場を多く渡らせてもらったことにより、Kさんの気持ちもわかるし、きっとかける言葉も違うであろう。

皆様も在宅の現場においていわゆる困難事例と言われる方も多く出会ってきたのではないだろうか。

・指導しても、定着しない。
・だめだよ、危ないと言ってもやってしまう。
・意欲がない。

ケアマネさんはもとより、関わる多職種の方も手を焼くかたはいる。

そのような方に対して、
まさに、あーしてください。これはだめですよ。と指導する事も多い。しかし定着するどころか、指導することさえもだんだん、なぁなぁになってくる。

専門職として、指導すべきことをしないことはきっと、道理に反するのかもしれない。

しかし我々の本当の使命はなんだろうか?

きっと指導することだけではなく、本人の生きる意欲や楽しみを引き出し、本人の内的動機付けをくすぐってあげることではないだろうか?

そのためには見て見ぬふりも時には効果を発したり、本人に役割をあえて与えてみる事も効果的だろう。

その匙加減は難しい。

しかしその匙加減によって利用者様の未来、生活が変わってくることはきっとあると信じている。

さてさて、新人の私よ。。。

Kさんと一緒にスーダラ節を歌うくらいの余裕ができればきっと君も本物さ。

なんて偉そうに言いつつ、

スーダラ、、、いや、グータラな日々の不摂生を肯定しようとする私は、

まさに令和版、わかっちゃいるけどやめられないの典型であろう。

だれかこの困難事例の私に適切な指導をしてほしい。

2024.03.09

訪問4コマ漫画㊲「気遣いを学ぶ。」

よくテレビでも、「○○さんは気遣いができる!」とか「あの人は気遣いの人」とか。人を評価、賞賛する際によく使われる「気遣い」という言葉。

気遣い: うまくゆく、または失敗しないように、気をつかうこと。と定義され、
気遣いができる人とは「相手がしてほしい、されたらうれしい、心地よいことを察することができ、それを積極的に言葉にしたり行動に移したりできる人」とされる。

我々医療、介護職においては非常に大切な能力であり、常に専門性を活かしながら相手(利用者)がされて嬉しいことや、心地よい時間を提供するのが最高のサービスであろう。

しかし、我々リハビリ職においては、気遣いとやり過ぎは区別して考えなければならない。

良かれと思って、、、相手が喜ぶと思ってとった行動が本人の「自立」を妨げてはならないし、時には見守ることも、見て見ぬふりをすることも実は大事であることは言うまでもない。

この仕事は世代が幾分も違う方と接するため、気遣いの観点や考え方も違うなーと思う事が多い。

Aさんの話をしよう。
Aさんは御年94歳。ご年齢の割には見た目も認知機能もしっかりしており、自立心の高い方である。人様の迷惑にならないように!が口癖の方である。

物のない時代、大事にする時代を生きてきたからであろう。何でもかんでもゴミとして扱わず、まさにSDGs。最後まで使い切るように工夫して生活をされている。

そんなAさんはディサービスにも通っている。初めは嫌だ嫌だと言っていたが、今ではリハビリの時間にディサービスでどんなイベントがあった!だとか、昼に食べた物が美味しかっただとか。まるで今日あった出来事を親に一生懸命伝える子供のように話してくれる。

そんなしっかり者のAさんは私の行動や仕草をよく見ている。

とある日のこと

「メモ紙いらない?」

と言われた。

出されたのは、いわゆる裏紙であった。ディサービスなどで配られる紙を大事にとって、裏面をメモ帳として活用していたのである。

普段から裏紙を仕事中に使ってる私をよく観察していたのであろう。溜まったメモ帳を私にプレゼントしてくれたのだ!

私は快く受け取った。
物を大事にする姿、見習わないとな!
と感じたのだ。

それからしばらくして、

「まだメモ帳残ってる?また沢山できたからどう?」と。

よくよくAさんの行動を観察するとメモの山が2つできている。

『はて?』

と感じた私は

「なんで2つにメモ帳分けてるのー?」

と何気なく聞いた。

「これはね、印刷面が濃いと、裏に移っちゃうでしょ。そうするとメモ帳でも嫌じゃない?だから分けてるの。先生にプレゼントするのは印刷の薄い裏が白い紙のほうよ!」

なんと、Aさんは裏紙を再利用するだけでなく表面の印刷の濃さ、色移りまで気を使い、最高の裏紙メモ帳を私にプレゼントしてくれていたのだ。

正直いままでそんな事気にしたこともなく、裏紙なんて書けりゃいいだろ!くらいに思ってたガサツな私は、すごく感動し勉強になったと思ったのだ。

気遣いの仕方、方法、考え方は人それぞれであろう。受け取り方もそれぞれだ。

しかし私は

せっせと裏紙をハサミで切り、仕分けして、綺麗に揃えてプレゼントしてくれるその背景までも浮かび嬉しくなったのだ。

人から学ぶことは非常に多い。

特に世代の違う方々から学ぶことは教科書には書いてない。
ジェネレーションギャップだとか時代にそぐわないとか、そんな言葉で片づけるのはもったいない。

幸いなことに、この仕事は日々色々な方と接する。
今日もほっこりする出来事や、ぷっと笑う場面を目の当たりにし、相手の気持ち、気遣いを全面に感じながら、仕事をさせてもらうことに感謝をし、いただいた気遣いを私なりの形でお返しできるよう頑張ろと思う、、、

さむーい寒い訪問移動時間とっては心温まるエピソードであった。

2024.03.09

訪問4コマ漫画㊱「2024年を考えよう。」

2024年を考えよう。

 

2024年幕開けである。
今年はどんな年になるだろうか?

目下予定されている大きなイベントとして、パリオリンピックや紙幣の刷新。

そして我々医療、福祉業務従事者としては「6年に一度のトリプル改定」が待っている。

医療・介護・障害福祉の診療報酬改定が同時に行われる年である。

さてずっと前から言われており耳にタコである2025年問題を目の前にして行われる改定であり重要なのはいうまでもない。

2025年問題
「団塊の世代が、すべて75歳以上の後期高齢者となる」ため医療・介護のニーズが急速に増大してしまうという問題だ。

聞くだけで、大変だぁぁぁ。と感じる一方で私は違った目線から2025年問題を考えたい。

そもそも団塊の世代とはどんな世代なのか?

団塊の世代とは1947年〜1949年に生まれた世代を指し、バブル期や平成不況世代を経験してきた世代である。

時代背景としては高校や大学に進学する人が増加した。いわゆる「学生運動」も見られた世代である。
また高度経済成長期による好景気を経験し、「努力は報われる」という感覚を持っている方が多いと言われる。
そして常に生存競争の激しい渦中にいた事もあり競争意識が強い傾向にある世代と言われている。

さて話は変わるが、現在日本では人口は減少傾向にある一方、2040年までは死亡数は増加傾向にある。そして「人生の最終段階における医療・介護」に関して改めて考えさせられている。

対象となる高齢者の世代が徐々に変わってゆく中で人生の価値観、生きること、死に対する価値観もおそらく変わってくるだろう。

以前コラムにも書いたことがあるが、我々リハビリ職が「終末期」に関わる事は少ない。
リハビリと聞くと良くなる、改善するというイメージもあり、終末期においては回復の見込みが低く、看取りを迎える時期にリハビリを行う必要はないのでは?(できないのでは?)と、考えるかたも多いだろう。

しかし終末期におけるリハビリの役割、効果も実例としていくつもあり最期まで自分らしく、希望を持って一日でも長く笑顔で過ごすために、リハビリはそんな思いを叶えることを支援する。

その人らしいさを理解するうえで、世代背景を理解することもとても大切でと感じる。今、お手伝いさせてもらっている高齢者は80代後半から90代の方がほとんどで、戦争を経験した方がほとんど。話題も戦争の話が多い。

きっとこれからは違った話が繰り広げられるだろう。

その人を理解しリハビリを提供する上で、私は本当にその人がやりたい事を提案したい、支援したい。

極端な話、私は「運動しなければならない。」といった運動を強要するような関わり方、支援の仕方はしたくないのだ。

「やりたい事、目標」の手段としてリハビリ、運動があれば理想である。

そして、やりたい事を引き出す関わり方も世代が変わっていくにつれて変化させていかなければならないだろう。

先日、とある利用者さんと2024年どーする??なんて会話をした。長く付き合っている利用者様。なんでも、フランクに話ができる間柄である。

「私はね、美しいものが全てなの。最期まで美しくいたいの。見た目がすべてよ。」

「、、、、、。」

なるほど。

2024年のリハビリ計画練り直し。笑
いかにお気持ちに応えられるか。
私の美的センスも問われる課題。

さて、色々な人生に関わられてもらえる訪問リハビリ。私も価値観を広げてブラッシュアップしていきたい!

2024.01.22

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