訪問4コマ⑯『グルメだったこと』
最近の出来事だ。
なんでも食べ始めた一歳の息子。シシャモを出すとまぁパクパクと食べてくれた。嬉しくなった母(私)は調子に乗り、ちょっとお得なたくさん入って割安のシシャモを買ってまた食卓に出した。
するとどうだろう。。。
前回と違ってひと口食べると口を横一文字にし、首を横にブンブン振って『NO』をアピール。挙句の果てにシシャモの卵をばら撒きまくる!という、、、
なぜだと思った私はシシャモをひと口食べた。うん、たしかにお得用のシシャモは前回のシシャモと比べて味が劣った。
違いのわかる1歳児、先が思いやられる( ;∀;)
そんな息子とのやりとりをしながら、ふとAさんのことを思い出した。そう、Aさんも息子と同じグルメだったのだ。
Aさんは入院中に胃ろうを造設し経口摂取をすることは難しいと判断されたが、息子様の想いもありお楽しみ程度に毎日何かしら口から食べている方であった。
病気のため発話少なく、コミュニケーションは頷きにてとっていた。YES・NO質問のクローズコミュニケーションでのやりとり。そして元々、おしゃべり好きな性格ではないようで気が向かないと頷くこともない。
そんなAさんのお楽しみの食事は、ほんの少し。ペーストにした果物やおかずを少しずつゆっくりと食べる。
介護する息子様も慣れたもんで、食材によってどんな感じにペーストになるのか、とろみのつき具合など良く研究されていた。
そんなある日の出来事。
Aさんはバナナを食べたそうだ。するとどうだろう。ひと口食べると、もういらないと言わんばかりに口を開けてくれなくなったそうだ。
はて、と思った息子様。今日は食欲ないのかな?と思ったと。
そして他の日、桃を食べたそうだ。
すると同じようにひと口食べて、口を開けてくれなくなったと。
おかしい。嫌いなのか?
いや違う、前もバナナ、桃しっかり食べてくれた。。。
そして研究熱心な息子様はその謎を解き充てたのであった!
バナナは一本150円くらいの高級バナナ、桃は旬の桃は食べたくれたと。フサで売ってる割安のバナナや桃缶の桃は食べてくれなかったことにたどり着いた。
なるほど|ω・)
そりゃお楽しみ程度、毎日少しの量を口から食べることが楽しみ!
美味しいものを食べたいに決まってる!
Aさんの研ぎ澄まされた味覚は瞬時に美味しいもの(高いもの・安いもの笑)を判断していたのだ!
QOLならぬ、QOM!
Quality of Meal 食事の質だ!
Aさんは身体の自由がきかない分、誰かにやってもらう(介護してもらう)ことで毎日過ごしている。
私たちもリハビリをすることが前提となっているが、そこに本人の意思があること、どんな気持ちでいるかを忘れてはならない。
そしてそんな気持ちを引き出せるよう、アウトプットできるような対応、関係性を作り上げることがとても大事だ。
関係性を築き上げるべく、リハビリ中は終始おしゃべりしてしまう私はいつもAさんに一方的に話しかけている。
私『今日は元気?』
Aさん「うん(頷く)」
私『美味しいものたべた?』
Aさん「うん(頷く)」
私『面白いことあった?』
Aさん「うん(頷く)」
私のおしゃべりにうんざりしたのか?Aさんは何にでもうんうんと頷く。
イジワルしてやろうっ!と悪い心が働いた私(´ω`*)
私『高いツボ買う?』
Aさん「NO(首横に振る)」
私『げっ、騙されなかった!』
Aさんはニヤッと私を睨む。
まだまだ一枚上手のAさん。
まだまだ修行が足りないのは私の方であった。
— 完 —
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2022.04.04
訪問4コマ⑮「果たしてそれは認知症?」
訪問リハビリという仕事をしていると、折に触れて『認知症』の方をお手伝いさせていただく。メディアでも多く取り上げられ、医療、介護の仕事に従事しておらずとも認知症に関しては誰しもが関心があったり、近しい人の介護などの経験から以前よりも身近になっているのではないかな?と思う。
『認知症の人の意思が尊重され、出来る限り住み慣れた地域の良い環境で自分らしく暮らしを続けることが出来る社会を実現する!』という、新オレンジプランにもあるように、認知症への理解や活動は盛んだ。
私自身、日々の仕事やRUN伴などへの参加を通して認知症の方への勉強や理解を積み重ねてきた。
しかし、Fさんご夫婦のリハビリやお手伝いを通して私は認知症に対して新たな視点を得ることになったのだ。
私がお手伝いをしていたFさんご夫婦は二人暮らし。娘様方も遠方在住のため交代でお手伝いにきてくれるが、基本お二人で生活をしているとても仲睦まじいご夫婦であった。
出会った当初、旦那様は90代。奥様も80代後半。いわゆる老老介護の状態であった。
お手伝いをさせてもらった旦那様は、外に出るのが億劫でありディサービスなどの通所系サービスを拒否されていたため、訪問リハビリを紹介され、お手伝いすることとなった。
出会った当初より旦那様は認知症の兆候が色濃くでていた。
リハビリ中の会話も、壊れたラジカセのように何度もリピート。同じ話を繰り返す。何度も何度も。
もちろん私の名前を覚えることもなく(きっと私が何者であるかもわかってないだろう)日付や昨日の出来事も覚えていない。
お風呂も拒否し何週間も入らないこともある。『今日はお風呂入ろうね~』と奥様がお風呂の準備をしても、急に心変わりし入らない!と拒否することも少なくない。
奥様の姿が見えないと不安になり『おーーぃおーーぃ。』と呼ぶこともおおく、洗濯物を干しに行く、ゴミを捨てにいくという時も『今から○○しに行きますからね!』と伝えるがすぐ忘れて『おーーぃおーーぃ。』が始まるのだ。
毎朝飲む薬もなかなか飲まず『これは毒なのか!?』『毒じゃありませんよ。薬なので飲んでくださいね。』
というやりとりは毎日のお決まり。
判断力も低下しており、リハビリの計画書のサインをもらうにしても『ここに名前かいていいの?』から始まり『これ書いたら何から悪いことに使うの?』など名前をいただくにも一悶着、二悶着ある。
ご飯もなかなか食べないため、奥様も『作りがいがないのよぉ。』とこぼしておられる。
暴れたり、暴力をふるったりという攻撃性はなかったものの、客観的に大変だなぁ。と感じていた。
さて認知症と聞いて皆さんはどんなイメージを抱くだろうか?ポジティブなイメージよりも、きっとネガティブなイメージが先行するのではないだろうか?
・大変だなぁ。
・家族に迷惑かける。
・私は認知症になりたくないな。
私が訪問リハビリの仕事を行ってても、お手伝いするご高齢者様から『自分のことが自分でできなくなったら生きている意味がない。』という言葉が良く聞かれる。言い換えれば『認知症になったらおしまい』ということであろうか?
さてさて、Fさん夫婦の話に戻ろう。Fさんはそんな認知症の兆候がありながらも、とても穏やかで楽しい方だった。そして、私が大変だなぁと思う反面、奥様の素振りからは大変さは感じられなかった。
長年連れ添った夫婦だからこそなせる空気なのか?昭和を生き抜いた夫婦だから絆が強いのか?なんて思っていたりした。
そんなFさんとの付き合いは、なんと4年あまり。そして最期までお手伝いさせてもらった。
落ち着いた頃、奥様と旦那様のことについて話した。奥様からは意外な言葉が聞かれた。
『パパはなかなか大変だったけど、認知症じゃなかったからね。』
んん!?
私が抱いていた旦那様像と奥様が思っていた旦那様。
奥様は旦那様の事を、認知症とは思ってなかったのだ。
認知症に対する勉強や理解を積み重ねたことでうっかり忘れていたことがあった。
そう、一人一人には生活があり人生があることを。
ついつい勉強に走ると症状ばかりに目が向き、最善の対応を模索する。
私は奥様の一言で、新オレンジプランにも掲げてある、『認知症の人やその家族の視点の重視』ということを改めて考えるきっかけとなった。支援者が大変だなと客観的に感じ評価したとしても、支える家族が困ってなければそれは問題点ではないのかもしれない。逆を言えば、我々支援者が「まだまだ大丈夫」と評価しようとも本人や家族が困っていたら、それはしっかりと向き合うべき課題である。そう思えるには、人生という長い時間が影響するし、日々の生活が左右するだろう。
我々は専門職としての責任がある。
しかし、専門職だからこそ見逃してしまう事、忘れてしまう事がある。
ある日遠方からお手伝いに娘様がきていた。Fさんと奥様は毎度のお約束、お薬は毒なのか?のやりとりをやっている。
そばで見ていた娘様はおもむろに奥様に
『たまには本当に毒いれてみたら?』
とサラッとおっしゃっていた。
爆笑。。。
これこそが『住み慣れた良い環境で自分らしく暮らしを続ける』ポイントなのかもしれないな。
— 完 —
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2022.03.07
マザース通信 2月号 Vol.45
2022.2.7発行
[コンテンツ]
✓ 健康雑学クイズ
✓ 連載第14話!訪問あるある4コマ漫画
✓ Rehastagram (リハスタグラム)
※PT・OT経験者:積極採用中!詳しくはこちらまで!
2022.02.07
訪問4コマ⑭「名探偵になるべく、、、」
訪問リハビリにてお手伝いする利用者様は大半がご高齢の方になるが、中には小児、お子さまのお手伝いをすることもある。
私は子供のリハビリを担当したことがほとんどないが、唯一担当したS君は私に色々な気づきをくれたひとりだ。
S君を担当したのは訪問リハビリを始めてすぐ。前任者から引き継いだ形で担当することとなった。
当時の私はまだまだリハビリの世界を理解するには経験が浅く、また人としても経験の足りない理学療法士。そしてがむしゃらに仕事をしてた一年目の頃と比べると、今自分がやってることが何なんだろうなーと、ちょうど壁にぶつかっていた頃だった。
S君は難しい病気を患っていた。
5歳の頃から急に歩けなくなり「おかしいな、おかしいな」と当時ご両親は病院を駆け回ったらしい。
そして難病と分かった。
どんな気持ちだっただろう。
私がリハビリとして担当した時、S君は高校を卒業するくらいの年齢であった。寝たきりで意思疎通はできない。食事は胃ろうからとり、唾液で誤嚥しないようにと、唾液が肺に落ちて行かないように手術もしていた。
『寝たっきりの人のリハビリって何するの?』
医療・介護業界と全く無縁のところで働いてる友人から何気なくきた質問だ。
これが、正直な世間の認識なんだろなと思った。
動かない、動かさないことへの弊害がどんな形で現れるか。私は大学で、そして勤めていた病院でそれなりに勉強し経験を積んできた。
が、ただそれだけだった。
それ以上に関しては気が付かなかったし、気に留めることがなかった。
S君のお母さんはとっても明るい人だった。
韓国俳優にどハマりして、熱く素晴らしさを語ってくれるそんなお茶目なところもありながら、母としての強さや覚悟もしっかり持ち合わせたお母さんだった。
S君のリハビリの目的、目標は全身状態の観察と、関節拘縮予防。自身で動かせない身体の関節一つ一つをゆっくり優しく動かし、拘縮しないようにすること。
毎回1時間ゆっくりと取り組む。
S君はご家族の献身的な介護もあり状態が安定していたため、毎回のリハビリに特段変化がなかった。毎回同じことの繰り返し。それはとてもいいことなのであるか、当時の私は物足りなさも感じていたのが本音である。
ある日の夏のこと。
リハビリをしていたら一匹の『蚊』に気がついた私。
『お母さん、今蚊がいましたね。どこか行っちゃいました!』
何気ない会話のつもりだった。
ところがどうだろう。
私が思っている以上に蚊に対して敵意を剥き出し、なんとしてでも仕留めようと探し回るお母さん。
『S君が刺されちゃっても自分で掻くことができないし、痒いって言えないら、、、。』
あっ、そうか。。。
そこまで気が回らなかった自分を強く、強く恥じた。
そこからというと、私はリハビリをしながらお母さんのS君へのケアや接し方をじぃぃぃーーーっと観察するようになった。
声の掛け方やオムツ交換の手捌、部屋の環境に対してどう気を配っているかや我々に対して質問してくる内容など、あらゆるところが気になった。
今まで、病院勤務していた時も寝たきりの方のリハビリは行ってきたが、こんなに一つ一つの表情に気を止めただろうか?
こんなに頻繁に声かけをしただろうか。
そもそも返事のない会話に、なにをどう声かけて良いかもわからなかった私。
『こなす』リハビリを行なってきた私。
だから、壁にぶち当たっていた私。。。
それからというものの、特に在宅という環境においては、私はそう!どこかの名探偵のように、いや、埃ひとつに目を光らせる小姑のように観察するようになった。
そして、舞台の上で話を続ける落語家さんのようにリハビリ中も話しかけた。
いつもは合わない目線があったときに、伝わったんだなーと感じ、なんか嫌な顔した時は、私の話はつまらなかったのかと、笑いのセンスを磨こうと心に誓った。
物足りないという感情は、、、忘れていた。
今日もお母さんは元気いっぱいにS君のケアをしていた。
それは今日みたいに冬の寒い日のこと。
S君の部屋に入ったらモクモクと加湿器がたかれている。うっすら向こうが見えないくらいに(笑)
『乾燥は気管切開してるS君には大敵だから!』
、、、たしかに。。。
モクモクと加湿器が炊かれる部屋で、加湿器の煙に若干私はむせこみながら、今日もS君とのリハビリを楽しむ。
S君がいつも穏やかなのはお母さんのおかげだな。
私はまだ名探偵にはなってはいない。まだまだ修行が必要だ。
おぃ!名探偵よ。
正月の怠惰な生活でついた、お腹周りの浮き輪には気がついているか、、、
私はまだまだ修行が必要だ。、、、
— 完 —
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2022.02.07
訪問4コマ⑬「ザクリ、ザクリ、グサリ、、、」
ここ最近、急に寒くなったなぁと感じる。
こんな季節が舞い込むと、私は決まってKさんを思い出す。
自転車を漕いでいると手がキンキンに冷たくなる。手の寒さを感じると私は決まってKさんの声が聞こえて来る。
吐く息がだんだん白くなって見えてくる。
白くなる息をぼーっと眺めるとKさんにたどり着く。
Kさんはなかなかの問題児、いや既に80歳近かったから『児』ではないな。問題オバちゃまと愛情を持って呼ぶこととしよう。
問題オバちゃまは、よく転んでいた。外で転んだり家の中で転んだりと。その度にリハビリを前向きに取り組み、その都度復活して、またちょっと調子に乗ってスッテンコロリンする方だった。
Kさんは少し、いやだいぶ耳が遠かった。耳元で大きな声で話してもなかなか通じず、大事なことは筆談を用いながら会話をしていた。
補聴器をつけても聞き取れず、むしろピーピーとなって煩わしいとつけず、よく無くしていた。その度に家族に怒られていた。
耳が聞こえずらいというのはすごく不便であろう。
Kさんはもともとの趣味である詩を詠むことに熱心に取り組んでいた。スムーズな会話は出来ないけど、だからこそ感性が研ぎ澄まされ、想いを言葉にし、我々に伝えてくれた。
そんなKさんとのリハビリは外を歩くこと。春は桜を見ながら、真夏の暑い日は汗をタラタラ流しながら、秋は寂しさを少し感じ、冬は寒い寒いと文句を言いながら外を歩いていた。
そんなある日の寒い寒い日のこと。外を歩いていたら、なんと霜柱が立っていた。
ここ最近霜柱なんて見ることのない私。ちょっと興奮。Kさんも一緒に嬉しくなり果敢に霜柱に向かっていった!
『ザクリっ』
軽快な音とともに霜柱が潰れる。私はこのサクサクとした感触がなんともたまらない。
ついつい童心に帰った私。
『Kさんも踏んでみましょーよー』
Kさんも嬉しそうに霜柱に挑む。
しかしKさんは体重が軽いせいもあってか、踏む力が弱いこともあってか、『ザクリ』と霜柱を潰すことができなかった。
私はKさんを慰めるべく、Kさんに届くような大きな声で
『Kさんの体重軽いから、なかなか霜柱つぶせないね』とゆっくり伝えた。
Kさんには私の声が伝わったのであろう。
おもむろに私の太ももを触りながら、そしてどこまでも響く大きな声で
『あんたの太ももなら大丈夫だわ!』
童心に帰っていた私は、一気に現実に戻される。。。。
またもう一度霜柱を踏む私。
ザクリ、、、いやグサリ。
霜柱の音よりも、Kさんの的確な表現は私の心にグサリと刺さった。
そんな表現豊かで自由であるがままのKさんは私に一つ歌を送ってくれた。
リハビリに
三度重なる
縁の糸
桜咲く日の
間近ならむに
年を重ねて、怪我をしたり、出来ないことが増えてきたり、もう嫌になる。ってことも多いだろう。しかしKさんのようにひとつひとつ現状を受け入れ、ひとつひとつを前向きに捉えて、できることを取り組む姿。
簡単なようでなかなかできないことだ。
私は寒くなると思い出す。
そうだ、そろそろダイエットしなきゃなぁと。
私は息が白くなるとハッとする。
前向きな取り組もうと。
私は霜柱をみて突き刺さる。
現実の音が、、、
ザクリ、、、グサリ、、、
— 完 —
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2021.12.29
訪問4コマ⑫「BB弾に込めた想い」
Sさんは、、、
強かった。
優しかった。
そしてなりより、、、
悔しかった。
初めて会ったSさんはベットにいた。
電動ベットの背もたれをあげ、陽気に挨拶を交わしてくれた。
そばには高齢のお母さんも優しそうな眼差しと心配を押し込めた表情で私を出迎えてくれた。
初めて介護サービスを使う。
心配でたまらないんだろう。
Sさんは癌を患っていた。
その癌はなかなかの曲者であり脊髄へと転移をし、Sさんの下半身の機能を蝕んでいた。Sさんはすでにベットから自力で起き上がることも座ることもできず、もちろん歩くこともできなくなっていた。
Sさんはまだ若かった。
当時60代。
同世代はまだ仕事をしたり趣味を謳歌したり。きっと奥歯をギュッと噛み締めることや大きなため息とともに諦めたことも多かったと思う。
そんなSさんは病院での治療から在宅での療養生活を選んだ。
そんな中、リハビリとして私は呼ばれたのである。
簡単な手続きをしたのち、ふとSさんは私に聞いてきた。
『先生、私はリハビリでまた歩けるようになりますか?』
事前に得ていた医学情報からはきっと歩くのは無理だった。
私は意を決して伝えた。
『また歩けるようになる事は難しいと思います。でもSさんがこの家から外に出ることはできます。』
と、初対面の私は思いつく限りの私のリハビリ計画、構想をSさんに伝えたのである。
『わかりました。お願いします。』
そこから私とSさんのリハビリは始まった。
ご自身で身体を動かすことが難しく癌のため浮腫んだ両下肢。どんどん関節は硬くなっており、リハビリ開始時は車椅子に乗ってもフットサポート(足を乗せる台)に足を乗せることができない状態。股関節も曲がらなくなってきていたため、ベッドサイドで座ることも大変であり、車椅子に座っても時間が経つとどんどんお尻がずり落ちてきてしまっていた。
Sさんはリハビリを頑張った。
きっと葛藤した日々もあったろう。しかしそんな気持ちはつゆ見せず、ただ私が掲げた目標に向かってリハビリを取り組んでくれた。嫌になることもあったに違いない。でも、毎回笑顔で取り組んでくれた。そして私をも笑わせてくれる、なんとも素敵な時間を一緒に過ごした。その頑張りもあり、Sさんは車椅子に長く座ることもできるようになり電動車椅子を導入しご家族と散歩を楽しむことができるようになった。
電動車椅子に
『でんちゃん』
と名前をつけるお茶っめっぷりもさすがである。
リハビリを進めるにあたり、私はずっと引っかかっていたことがあった。初対面できっぱりと「歩けない」と宣告した私。きっとショックだったに違いない、、、にもかかわらず、笑顔で懸命にリハビリに取り組んでくれる。どんな気持ちだったのだろうと。。。
ある日、私はSさんに聞いてみた。
私の「歩くことは難しい」という判断に関してどう思ったか?
Sさんは「はっきり言ってくれてよかった。」と静かに話してくれた。「曖昧にされるより幾分もよかった。リハビリで何をすべきが示してくれて納得して取り組むことができた」と。
きっとSさんの優しさによる部分もあるだろう。その言葉に私は少し救われた。救われてしまったのだ。
そしてある日Sさんのお宅に伺うと、廊下に見慣れない缶が。。丸く円を書き『的(まと)』をつけていた。
「Sさん。廊下のあれ、なんですか?」
「あぁ、あれね、、、」
おもむろに枕の下に手を伸ばすSさん。出てきたものは、、、なんと「銃」であった。もちろん「御用だ!御用だ!」になってしまうような銃ではなく、おもちゃのBB弾を込めて使う銃である。
全く意味がわからない私???
「これでね、廊下の缶を目掛けて打つんだよ。僕、ベッドから動くことができないでしょ。だから考えたストレス発散方法!」
と言うと銃を構え、廊下の缶目掛けて一発「バーーーンッ!」と打ち込んでくれた。
「結構これ、難しいんだよね。逆にストレス溜まったりして!笑」
とSさん。
冗談混じりのやりとり。
普段と変わらない空気。
しかし、私のココロは何かを感じていた。
しばらくしてSさんは天国へと旅立った。家族をはじめ多くの友人に囲まれ、最後まで笑顔を絶やさず旅立った。
Sさんは「死」をきっとどこかで意識していたに違いない。
今やっているリハビリに何の意味があるのかと思うこともあったと思う。
私たちが思う。
考える以上に日々葛藤して、打ち消して、そしてまた悩んでの日々を繰り返していたに違いない。
その中で一つの小さな希望に大きな期待をかけ、そして絶望し、でも周囲に心配はかけまいと笑顔という武器を最大限に活用していたのであろう。
そんな気持ちを最後まで見せなかったSさん。
そしてSさんの言葉に救われてしまった私。
そしてBB弾。。。
生きる意味、死ぬ事への覚悟。
Sさんは最後まで私に弱音を吐かなかった。いや私には吐けなかったのかもしれない。
良くなりたい!生きたい!という気持ちの強かったSさんだからこそ、リハビリの場面では全く弱音を吐けなかった、良くなるために吐きたくなかったのだ。
私はそのSさんの覚悟を全く気がついてなかったのだ。
BB弾を見るまでは。。
銃を構えながら的を狙うSさんの姿を思い出し、今も考えることがある。
リハビリってなんなんだろうと。
バーーーンとBB弾が缶を弾く音を思い出しながら、今日も想う。
Sさんの言葉に今も、今現在も救われている私がいることを。
Sさんとのリハビリは決して長い時間ではなかったが、いま私が向き合う多くの利用者様へと繋がっている。
Sさんに、心からありがとうと伝えたい。
— 完 —
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2021.12.06
訪問4コマ⑪「家族の専門性って?」
さて、今回お話するのもAさんのお話だ。Aさんは子宮癌を患い闘病し、自宅で療養している方。癌が骨盤や股関節に転移しているものの、外に出たいという希望を叶えるべく、リハビリを頑張っている方である。
前回は頑張ってベット脇に座ることができるようになったというお話をした。初めは短い時間から初め、徐々に時間を伸ばし長く座っても特段痛みや疲れが出ないところまでやってくることができた!
この頃になると、一緒に住んでいた旦那様も奥様のリハビリに興味を持ち始め、今まではリビングでテレビをみて素知らぬ顔だったにも関わらず、そばで一緒にリハビリの時間を過ごすようになってきた。
だんだんと変わっていくAさんに刺激を受けたのだろうか?
これからのAさんのリハビリ方針としては『外に出たい』という目標のもと、車椅子に乗る必要が出てきた。比較的しっかり安定して座ることができてきたので車椅子に乗ることは問題なかろう、問題は移乗動作だ。
〈移乗動作は介護の場面でも事故や怪我の多いところだ。ベットや車椅子からの滑落に加えて、フットサポートに足をぶつけて青あざができてしまうことも多々聞く〉
Aさんは長らくのベット上生活というストレスと向かい合うべく食に走り、なかなかの豊潤な体型となっていた。私もリハビリのプロとして移乗動作は得意としていたが、さすがにパワーが足りない。お尻を持ち上げた途端に共倒れになるのが関の山であった。
1人ではどうしようもないこの状態で次なる手は・・・
悩んだ挙句、白羽の矢を立てたのは最近リハビリの時間に興味を抱いてくれた旦那様だ。この手を使うほかない。いやこれ以外に考えられなかった。
「あのぉぉぉ~お父さん!(現場ではお父さんと呼んでいた)Aさん車いすに乗せたいんですよ。でも私1人じゃ無理なんで、お父さんのチカラ貸してもらえます???」
「いいよ!どうするの?」
相変わらず、ノリのいいお父さんだ。
練り上げた作戦はこうだ!
Aさんは訪問入浴を利用してお風呂に入っていた。その際、バスタオルを身体の下に敷き両脇から持ち上げて湯船に浸かっていた。
その作戦でいこう。あとは私とお父さんの体力が持つかどうか。。。
車いす作戦をケアマネに伝え、リクライニング式の車椅子を借りてもらい、早速取り掛かった。
まずは二人の力試し。
バスタオルを使って持ち上げる練習をした。
んんっ、、、なんとか大丈夫。
これを何度か繰り返し、いざ車いすへ!
お父さんの顔も私の顔も緊張と必死さが漂う。
その顔とは打って変わり、車いすへは優しく優しくそっと下すのである。
「Aさん、痛くない?」
「大丈夫よぉ~」
相変わらず、とにかく明るいAさんである。
息を整え車いすの背もたれをゆっくりゆっくりと上げていく。Aさんの視界が天井からお父さんへと移る。二人見合ってなにか気恥ずかしそうな顔だ。
「せっかく車いす乗ったから、家の中でも探検しますか?」
バリアフリーではないその家は車いすで移動するにはかなり制限がある。1番気になっていた台所に向かってみた。中までは入れなかったけど、全体は見渡せるこの位置。かつてはここで沢山の料理を作った台所。
「こんなに汚くなってる~!!!」
怒ったような、でも台所を確認できて嬉しいような、そんな声色であった。
やっぱり主婦だなぁ!としみじみ感じたのである。
さて、車いすに乗れただけでも満足していた私であるが、、、
この先の『外に出る!』という目標を掲げながらも、どうしたらいいのかなぁと思いながらいた。車いすで外に出るためにスロープを入れるにしても場所がない。玄関から外に出るのは物理的に無理だった。
そんな悩める私とは違い、車いすに乗れたことで火がついた人物がいた。
それは誰か?
それはなんと、お父さんであった。
いままでリハビリに関心のなかったお父さんは行動に移った。
近所に住む息子や婿殿に連絡をとったのだ。
そしてそして、、、
訪問時、ニコニコ、いや、にたぁぁっとやや悪さをした少年のような顔のAさん。
「先生!ドライブしたの!!!」
「えっーーー!!!!!」
なんと男どもが集まり『力技』という荒業を使い窓から車いすごとAさんを連れ出し、なんと車にものせドライブを決行したではないか!
アンビリーバブル!!
「楽しかったぁ~また行きたい!」
本当に嬉しそうなAさんだ。
少し離れてこのやりとりを見ている旦那様も、ことをなり遂げた満足感かにたぁぁっと嬉しそうな顔をしている。
「重くて大変だったよ~」なんて小言も吐くが、それさえも満ち足りている。
『想いは人を動かし、行動は人を変える!』
Aさんの外に出たいという想いはリハビリに無関心だったお父さんを動かし、そして家族の行動までも変えてしまった。
介護はチームだ。ケアマネや医師をはじめ、それぞれがそれぞれの専門性を持ち役割を担う。
では、家族は?家族としての専門性・役割ってなんだろう?
Aさんの家族は、Aさんにとって私にはできなかった最高の楽しみをもたらしてくれた。
介護の現場における家族の専門性はもちろんそれぞれ異なる。
我々はそれを含めてチームとして最良の医療・介護を見極めて選んでいかなければならない。
決して最高でなくてよい。
外に出るようになってAさんの活動量は明らかに増えたにも関わらず、一向に痩せない。
動くようになって、お腹も空くようになったとさ((´∀`))ケラケラ
まぁそれもよし!!!
車いす移乗の介護負担は、まだまだ減りそうにないのであった。。。
— 完 —
produced by hyoudou
2021.11.04