訪問4コマ漫画㊹「元気の源」
これからの介護、人生、リハビリを考えると、、、
今回は訪問リハとは違った目線でコラムを書かせてもらおう。
私ごとになるが、先日実家に長らく帰省させてもらった。
家を出てからこんなに長く実家に滞在することはなかったので、大人になった私は改めていろいろ考える機会となった。
子供の頃お世話になったおじちゃんおばちゃんは、もちろん歳を重ね、怖いと思っていたおじさんは、なんだかこんなに小さかったのか?と驚くことも。
お菓子をくれてたおばちゃんの家には訪問看護の車が定期的に止まっていたり、近所のおじちゃんは、いつの間にかお星様になっていた。
景色こそ変わらず記憶のままであるのに、そこに住む人たちはしっかりと時間が経過している。
地元の広報を開いてみると、誕生した子供の数よりも亡くなった方の名前が多く書かれており、暑い日も寒い日も歩いて通った学校は数年後には廃校になることが決まっていた。
来年はいよいよ、日本の人口の約4人に1人が後期高齢者(75歳以上)となり、超高齢化社会を迎えることになる。
人口が減っている、若い人、働き手が減少している地域の2025年問題はどうなるのかな?とふと疑問に思ったのも正直なところである。
そこで、ふと目をやったのが
なう、ザ、後期高齢者のよくコラムにも出てくる我がばーちゃん。
昭和6年生まれのヒツジ年。最近はちょっと壊れたラジカセのように同じ話を繰り返すようになってきた。
腰は90度強曲がり、緑内障にて視力は少しずつ低下しいるにも関わらず、要介護認定非該当、いや要介護認定を受けていないのだ。(介護保険という言葉はしっているのだろうか?)
しかし、そんな体にもかかわらずADLは自立しており、未だにクワやカマをもって土をいじり、雑草と戦っている。(田舎の人にとって雑草ほど憎き相手はいないのだ。)
身内ではなく、自分自身が担当する利用者だった場合、
『もーやめな。危ないよ。』
『誰かと一緒にやってくださいね。』
と言って、行動を制してしまうだろう。
何故か?何故祖母にはその言葉をかけないのか?
身内ではあるが、療法士としての責任がないためであろうか?
なんと、無責任な身内であろうか、我ながら酷いなとも思う。
しかし、祖母の立場からしてみれは、できるんだからやる、やりたいからやる。
であろう。
2025年高齢者は増えていく一方、支える医療・福祉を担う働き手の不足は深刻な問題であることはいうまでもない。
働き手を増やすことはもちろんなのだが、1人で頑張れる人を増やしていく、つまりはよく聞く健康寿命を長く保つことは非常に大切なことである。
健康寿命を長く保つことはなにか?
これから問われる問題であろう。
もちろん身体的にも精神的にも健康であることは間違いないのであるが、それを活かす日常がなければ、健康寿命が保てないのではないのか?
祖母の例は極端かもしれないが、リハビリ職として関わらせていただく利用者様たちが、自分のやりたいことをやりたいと描ける、主張できるように関わるとともに、それを実現するためのチームとしての関わりが重要である。
ある日、祖母を探してもどこにもいない。
おーぃおーぃと呼ぶと、山から流れてくる沢のあたりから声が。
まだ若い私でも、そんなところに行きたく無い。
「なにしてんの?水流れてるんやから、滑ったは危ないよ」
「草が生えてるから、抜かないと」
昭和6年生まれ、生まれてきてから今まで草と戦ってきた祖母の執念たるや、理学療法士としての孫の想像の限界を超えてきたことはいうまでもない。
2024.12.16