訪問4コマ漫画㉜「リハビリプレッシャー」
先日、とある利用者さんよりこんなことを言われた。
『先生、暑い中来てもらって悪いわね。先生こんなに一生懸命やってくれるのにちっとも進歩しなくて、、、ごめんなさい。』
何気ないやり取りであったが、なんかグサっと刺さった。
皆さんはリハビリという言葉にどんなイメージを持っているだろう。
キツイ?痛い?大変?
どことなく体育会系のイメージが先行して、私はリハビリなんてできないわよ〜。と尻込みする方もいる一方
よくなる!元に戻る!など機能回復をイメージしている方も多くいる。
果たしてそのイメージは合っているのであろうか?
そもそも、リハビリテーションとは
英語で表記すると『Rehabilitation』となり、その語源はラテン語の「再び」を意味するReと「適する」を意味するHabilisが組み合わさったものである。
つまり、直訳すると「(人が)再び適する状態になる」ことを示すわけで、治るという意味とはちょっと違う。
病院勤め時代は、骨折や脳血管疾患にて入院してくる方のリハビリを担当する機会が多くあった。
その際、患者様やそのご家族からよく聞かれたのは
『もとの生活に戻れますか?』とか『前のように歩けますか?』といった声が多かった。もちろん、いきなり病気や怪我にてできなくなったことを目の当たりにし、不安いっぱいの中、先のイメージができない。その中でリハビリで自分はどうなるんだ?と言う思いから出る質問であることは十分理解している。
その心の葛藤を『障害受容』といい、①ショック期→②否認期(期待期)→③混乱期→④適応への努力期→⑤適応期という過程を辿るとされている。
リハビリでは、関わる中でその心の葛藤に寄り添いながらリハビリを進めていく。もちろんその受容過程は人それぞれであり、退院する時まで受容できてない方もいれば、早々に気持ちを切り替えている方もいる。
さて、話は戻るが冒頭の利用者様から投げかけられた発言。
これをどう捉えるか?
おそらく、家族などから「お母さん、リハビリして歩けるようにならないとね」と言われたのかもしれない。
または、周りにリハビリを受けて良くなってる方と自身を比べてしまってるのかもしれない。
いずれにしても、リハビリ=良くなる。というイメージが先行したために出た発言であることは間違いなかろう。
繰り返しになるが、リハビリは『適した状態になること』を目指している。
では適した状態とは?
それは身体の回復によって適した状態になることもあるであろう。
しかし、年を重ねた高齢者。
当たり前であるがリハビリをすれば機能回復ができる方ばかりではないし、頑張ったものが必ずしも目に見える結果として返ってこないのも高齢者である。
私は在宅生活における適応するとは、『身体的適応』『精神的適応』『環境的適応』と分けて捉えている。そして改善することで適応を目指すばかりではなく、衰えることに対しても適応していく事を考えることこそ、在宅リハの醍醐味ではなかろうか?
冒頭の利用者さんはきっと良くなることを目指すがあまり、リハビリが義務となりプレッシャーとなってしまったのではなかろうか?
そして私も、『先生のおかげで◯◯できるようになったわ』なんて言われると嬉しいがあまり、利用者さんにもそんな態度をとっていたのではなかろうか?と反省する。
介護保険におけるサービスの主体は本人、利用者様であることはもちろんのこと、リハビリにおける主役も利用者様。
私のためのリハビリではないのだ。
衰えていくであろう身体や生活の変化にも寄り添い、いかに適応していくかを考え、そして楽しみや希望を描ける様なリハを提供したいと思うのである。
さて、私は冒頭のやりとりに対してどう返したかと言うと
『いや〜この暑さで私、リハビリ腕が落ちてるんですよ。笑○○さんはいつも一生懸命ありがとうございます!』
果たしてこの返答は正解なのだろうか?
笑点だったら、『山田くん!一枚持っていってー』となるだろう。だれか正解を教えて欲しい。
2023.08.07
訪問4コマ漫画㉛「ニーズについて考えてみた」
先日、テレビを見ていると『認知症基本法』が参議院本会議で全会一致で可決・成立した。
医療、介護従事者にとっては、おおっ!と耳を傾けるニュースであった事は間違いない。
法案の中での基本理念として
・常に認知症の人の立場に立ち、認知症の人及びその家族の意向の尊重に配慮して行われること。
と明記してあるが、果たしてそれは現場でしっかり実践できているのかな?と我が身を振り返りながら感じたのだ。
サービスを提供するにあたり、本人、家族の主訴、いわゆるニーズを確認する必要がある。
先日とある研修会に参加した際にニーズの捉え方に関しての講義があった。
我々福祉、医療職はサービスを展開していくにあたり、本人、家族の「ニーズ」を大切にする。いわゆる本人・家族が何を求めているか、どんな主訴を持っているか。ということ。
しかし今回の研修ではニーズを整理することの大切さを身に染みて感じたのだ。
ニーズには
①フェルトニーズ(主訴):本人・家族が感じるニーズ
②ノーマティブニーズ(規範的ニーズ):支援者が必要だと考えるニーズ・支援者の憶測
③リアルニーズ(了解されたニーズ):本人との確認によって整理されたニーズ
以上3つあることを学んだ。
なるほど!
私はこの研修を通して、ずっとモヤモヤしていたものが少し晴れた気がするのだ。
昔むかーしのことだが、まだ理学療法士になって数年。病院内勤務から初めて訪問業務についてしばらくした時のことだ。
訪問業務においてもリハビリ計画書を作成する。その中では本人家族の希望を記載する項目がある。
各利用者様にこれからの生活をどうしたいか聞いた際に、言葉詰まらせる場面が幾度もあったのだ。
どんな生活が待ってるのか、どんな生活ができるのか皆目検討がつかない。と言ったところであろうか。
それは特に、骨折や脳梗塞などにより入院を経て、在宅復帰した利用者様、つまりは退院してからもすぐに訪問リハビリ導入となった方に多く見られる傾向だなと当時は感じた。
偉そうな言い方になるが、つまりは入院生活の中でいかに在宅生活をイメージさせ、またその先も描けるような退院時支援ができてないからかな?なんて思ったりも当時はしたものだ。
そのような状態でスタートするリハなので、なんとなく雲を掴むような場面も幾度もあり、『歩行器を使って歩けるようになる』というような目標をかかげるが、それはただリハビリのための目標であり、生活、大きく言えばその方の人生の目標にはなってないな。と思うことが多かった。
モヤモヤは募るばかりであった。
ふと、先程話したニーズを振り返ってみよう。
『歩行器で歩けるようになる』
一見、本人、家族が望むことのように見えるが、果たしてそうであろうか?
私はこの目標にもう一言付け加えたい。
『歩行器を使って家族と箱根旅行に行きたい。』
だとか、
『近所のスーパーまで歩いて行き買い物をしたい。』
などなど。
つまりは、なぜいま歩行練習をしているのか、その目標は?と突き詰めたいのだ。
具体的に旅行などの項目が上がらなくとも、
『90歳を迎えるまでは1人で歩いてトイレに行きたい。』
などそんな目標だと、なんだかリアルである。
専門家からしてみれば歩行練習をすることの意味を挙げれば沢山ある。体力を落とさないとか、活動量を維持するだとか。ただそれはノーマティブニーズであり、利用様からしてみれば、言われなくても分かってるよ。と突っ込みたくなるであろう。
だからこそニーズの整理が必要なのだ。
時として、特に認知症の本人、または家族からは主訴がなかなか出てこないこともあるだろう。
それはそれで間違いではなく、いまは分からない、それが正解なのだ。つまりは、主訴に気付ける、または引き出せるような関わり方をしていくことが大事で、我々は常に柔軟に対応していかなければならないのである。
特に価値観が多様化している昨今、生き方・死に方にも様々な意見が飛び交うであろう。
それに対応するべく、そしてだからこそニーズの整理が必要なのだ。
とある利用者から
『○月にひ孫が生まれるの。それまでは生きたい。』
と話があった。
なんて素敵な主訴であろうか。
そして専門家の私はこう返したのである
『物心つくまで生きてないと、忘れられますよ。なのであと2年くらいは生きましょう。』
『無理よ〜。』
リアルニーズの整理には失敗したが笑。とても心温まるやりとりができたことに、やはり在宅支援の楽しさをまた感じることができたのであった。
2023.07.12
訪問4コマ漫画㉚「地域で生きる、支える!」
先日、こんな話を耳にした。
とある高齢女性。近所に買い物に行くにあたりスーパーなどなく、自宅から坂を登った場所にあるコンビニに1人で買い物に行ってるそうだ。
すると、コンビニで買い物したあと、店の定員さんが「おばぁさん、危ないだろう」と、毎回坂の下まで荷物を持って運んでくれていると。
なんとほっこりするエピソードであろうか?
何気ないエピソードであるが私はそこから地域で生きる、地域で支えるとは?何だろう?と考えてしまう。
住み慣れた地域にいつまでも暮らすために地域包括ケアシステムというものがある。
「人口減少社会における介護需要の急増という困難な課題に対して、医療・介護などの専門職から地域の住民一人ひとりまで様々な人たちが力を合わせて対応していこうというシステム」のことだ。
Tさんもこの地域包括ケアシステムに加えて、ご近所ケアシステムによって立派に日々生活を送ってる方の1人だ。
Tさんは大腿骨を骨折してしまい入院。リハビリを経てなんとか屋内の移動を1人で行うことができるくらいまで回復し退院となった90代の女性である。
90代となれば友人もひとり、またひとりと旅立ち社会的な交流も少なくなる。そのため引きこもりがちとなり、活動量も少なくなりだんだん身体機能が低下していく。
自分らしく生きると言う点においても、日々楽しみ、張り合いがなく、生きているよりも、ただ生かされているという感想を聞く事も少なくない。
しかしTさんは、退院したその日から近所の誰かが噂を聞きつけて来訪し、
「あなた、大丈夫?よかったわね、帰ってこれて。」
「いやぁねぇ、やっとよー。もう私もだめよー。あははは〜。」
なんてやりとりを一通りしていた。
それからと言うものの、リハビリで訪問したら必ず誰かお客さんがきている。
社会参加を促すためにもディサービスに通うことも案にあがったが、本人が前向きになれず利用することはなかった。しかしディサービスと同等の社会参加は我が自宅で行われていたのであった。
Tさんは退院後も身体機能の改善を見せ、見守りにて近所を歩くことができるようになる。そしてヘルパーさんの手も借りながらスーパーまで買い物も実行することができた方だ。
さすがリハビリの力だね!なんて思うかもしれないが、果たしてこれはリハビリの力なのであろうか?
私は思う。
これぞ地域で支えたことの結果。システムがしっかり機能している結果なのではないかと?
我々専門職、支援者が利用者様を支えるにあたり限界を感じることもしばしばある。
しかしご近所ケアシステムはどうだろうか?持ちつ持たれつの精神、お節介精神は、本人の生きがいに直結し、あれよあれよといつのまにか地域に溶け込んでしまう。
Tさんとのリハビリの場面でこんなことがあった。
「○○さんにオカズもらったのよ。お返ししたいから○○店まで歩いていきたいの。付き合ってくれない?」
なんと前向きな歩行練習だろうか。
練習が終わった後も「○○店まで歩けるか不安だったけど、歩けたわね。よかったわ。」
なんて感想も聞かれ、よかったよかったとお互いに満足したのだ。
昨今、このご近所ケアシステムはだんだん衰退してしまっている。
それは時代の流れとして仕方のないことなのかもしれない。しかし仕方ない事として済ましてしまうには、ご近所ケアシステムは勿体無いシステムなのだ。
私が感じるのは、人に興味を持つことがご近所ケアシステムの一歩ではないかと。
あの人大丈夫かな?そう思う気持ちが
「地域の住民一人ひとりまで様々な人たちが力を合わせて対応していこうというシステム」の構築に繋がるのかなーと。
ふと、田舎の祖母を思い出してみた。
過疎化の進む地域で暮らす祖母。地域包括ケアシステムとうたうにも、支える人が少ない。その中でも果敢に生きる祖母。
今でこそ歳を重ね、支えられる側に移っているが、数年前までは近所の年上の方の家に図々しくもお節介焼いていた。
「また火をつけっぱなしだった。私が行かんと火事が起きる!」とプンスコ怒って帰ってきてはまた訪問している記憶が鮮明に残っている。
そして今は支えられる側。誰にどう頼ればいいのか?その為にも相手への興味の熱は冷めない。
最近は生協の荷物を届けてくれるお兄さんの個人情報を聞き出しており「○○に生まれたんと。4月から転勤でここに来たんと。彼女は2年前くらいからいないんと。」と聞き出しては、毎週荷物を届けてくれる時間を楽しみにしている。
人って自分に興味を持たれて嫌な気はしないのであろう。今でもお兄さんと仲良くやっている。
しかし、祖母の情報収集力。
自分らしく生きる為にはそのくらいのバイタリティは必要なのかもしれない。
2023.06.07
訪問4コマ漫画㉙「古い、アルバムのなかーーにーー。byH2O」
先日、リハビリ中にご家族からふるーーい写真を見せてもらう機会があった。
セピア色の古い写真だ。
一枚一枚大事にアルバムに貼られ、一言添えられてある。
服装や仕草からも時代を感じ、映る一人一人の表情から今にも声が聞こえてくるようなそんな写真。見れば見るほどついつい興奮してしまい、うっかりリハビリの時間を忘れ見入ってしまった私であった。
私は携帯電話を待つようになってから、写真はもっぱら携帯でパシャリ。現像することもなくずーっと携帯の中に保存されたままの私の想い出たち。
ちょっと、整理しないとなーと思うのであった。
訪問リハビリに携わるようになり私が大事にすることは、一人一人の人生だ。
訪問リハビリに従事して間もない頃、当時の指導者は私にこう教えてくれた。
「いかに情報を得て、どう整理するかが大切だ」と。
その時はふーーん。くらいにしか思ってなかった。
しかし、訪問リハビリを進めるにあたり、いわゆる「うまいセラピスト」というのはリハビリの技術はもちろんのこと、情報を引き出すのも上手くその情報を日々のリハビリに活かしたり、利用者、家族、ケアマネなどの関係各所とのコミュニケーションに使い、ザ・上手い!というのがわかった。
よく訪問リハビリのテキストに、家に入ってからが評価、アセスメントの始まりだと記載されている。今はお目にかかることが少なくなってしまった昭和のお土産の定番「ペナント」をみては話のタネにしたり。壁に飾った賞状もその一つ。綺麗に並べられた食器棚からもその人の人生を垣間見ることができる。
私は、学校ではいわゆる身体的評価、病気の事しか習ってこなかった。
私はそれが理学療法士として全てでありそれ以上なにか必要か?とも思っていたが、すぐさま壁にぶち当たる。
いま目の前にいる利用者様とリハビリするだけでは前に進めないのだ。
当たり前のこととだが、当たり前のことすぎて全くノーマークであったといえよう。
好きな食べ物しかり、どんな生活をしてきたか?どんなことに興味を持ってきたか?どこに旅行に行ったか?突き詰めれば結婚の馴れ初めまで。
そんな情報を交わすにつれて関係性はできるし、生きる動機を見つけることもできる。
効果的なリハビリはこんな些細な情報から生まれることもできる!
さてさて、写真をみながら感動している私。
「このひと誰ですかー?」
おもむろに発してしまった発言に、深く後悔する。。。
「それね、、、、若い時の私。いまは太っちゃって見る影もないけどね。。。」
やってしまった。
凍りついた空気が漂う。。。
皆さん、古い写真を見る時は気をつけよう。。。
想い出のなかに地雷があることを。
そう心に誓うのであった。
2023.05.11
訪問4コマ漫画㉘「都会の鷺から思うこと。。。」
先日、とあるご利用者様の息子様から
『うちの庭に、鷺がくるんだよ。』
と話があった。
またまたまたぁぁぁ、こんな都会のど真ん中に鷺が来ますか〜。それこそ、サギですよぉ。なんて、やり取りをかわりながら、すっかりそんなやり取りも忘れてしまっていた頃、、、
『ほら見て、この前ウチに来た鷺!』
きっと息子様は私からサギ呼ばわりされたのが癪に障ったのだろうか?飛来してきた鷺をしっかりと写真に収めてくれていた。
そこにはしっかりと真っ白な鷺が写っており、私は深く反省。そしてそもそも都会に鷺が飛来してくること自体にもビックリしたがその鷺のカッコイイたることや。
姿勢はピーンとしているし、羽の色は真っ白。
『都会の鷺はなんだか、垢抜けてますね。。』
思わず呟いてしまった。
今でこそ、東京で何年も訪問看護の仕事に就いているが、そもそも私はど田舎生まれのど田舎育ち。そして祖父母がよく面倒を見てくれていたこともあり、そして近所の人たちもちょっと悪ガキであった私ことを気にかけてくれていたためか、よく年配の方と接することが多かった。
それもあり、いま東京で年配の方のお手伝いをさせてもらっている中で色々ギャップを感じることが多いのも事実である。
まず初めに、皆さんの気持ちが若いこと。年齢を感じさせないバイタリティをお持ちである。90歳を越えようも爪の先までデコデコのネイルをしている方や、ジャニーズにお熱をあげている方、本当に気持ちが若い。
二つめに、みなさん姿勢が良い。
高齢者というと腰がすっかり曲がってしまっているイメージだった。実際、私の祖母も私が物心ついた時にはすっかり背中は曲がってしまい、伸びたところを見たためしがない。都会にはそんなひと、そーそーいない。(やや偏見ありますが笑)
三つめに、みなさんどこか張り合いがない。
初めて関東に来た際に、びっくりしたのは娯楽はもちろんのこと、医療、介護サービスかしっかりとあり、そして高度なサービスが受けられる環境。しかしその一方でどこか毎日張り合いのない日々だとこぼすご利用者様と接して、なんでだろうと思った。
私は理学療法士であり身体的なアプローチに関しては得意とする。
しかしいつも思うのは、いくら歩けるように練習しても、いくら痛みが軽くなっても、生きるための充実感ややりがいまでアプローチできているのかと。
『いつ逝ってもいいんだけどね。。。』
そんな一言を聞くと少し寂しくなるのである。
病院勤め時代は『自宅に帰ること』が目標であり、『生きること』まで考えを及ぼすことはなかった。確かに安全に安心して日々生活できることが基本であるので、それは間違いない。
しかし在宅でリハビリを提供するようになって、より『生きがい』がいかに大切か感じるようになったのだ。
私はひとつ思うのは、生きるためには
『仕事』『役割』『義務』
という物が、その方にあるのか否か。つまりはそれが、生きるための充実感や達成感へとつながるのではないかと。
私の祖母は90を超えているが未だに畑仕事をやりながら、お節介にも人の世話まで焼いている。
あんたに世話焼かれる人はどんな人なんだよ!とツッコミたくなる。
そして畑仕事も必要に迫られてやってる訳ではない。日々鍬をもち畑を耕すことが当たり前の仕事となっている。ただそれだけだ。
そんな祖母の姿を見ながら、今お手伝いさせてもらっている方たちに『仕事』や『役割』を見つけて差し上げることこそ、リハビリテーションの目標なのかもしれないと思うわけで。。
そう!「私は生きるためのリハビリを提供したいと思っているのだ」
大きな事を言いながらも実際できているのかは、ここでは置いておこう。
さて、鷺の話にもどろうか。
ご利用者様のご自宅にはちょっとした池があり、その中には小さな金魚が泳いでいる。
そんな状況だと田舎の鷺は一目散に金魚めがけて飛んでくるのだが、都会の鷺は高みからゆっくりと池をみては特段行動に移すことはない。
よく友人から訛りのなくなった言葉を話していると、『都会に染まったね』なんて冗談を言われることもあるが、都会という環境は鳥の習性までも変えてしまうのか?
なんてどうでも良い事を考える今日この頃であった。笑
2023.04.06
訪問4コマ漫画㉗『在宅におけるDIYとは』
誰にも言ったことがなかったが、私はホームセンターが好きである。便利グッズを探したり、ただただ綺麗に陳列された工具や部品を見るだけで何故かワクワクするのは何故だろうか?
幼い頃からやりたい!と思った事にはどちらかというと貪欲に挑戦してきたタチで、ワクワクさんやノッポさん(知ってる人はかなりのマニアかも!?)が作ってるものは真似をよくしていた。欠点はとにかく不器用なのと雑さであり、獅子おどしを作った時は「カポーン」という音は永遠に聞こえなかったし、竹とんぼを作ろうと竹を山から取ってきたが、結局飛ばなかった。挙げ句の果て、学校で縄文人はどんぐりでクッキーを焼いていたなんて話を聞いたら、やってみたくてたまらなくなり、作った自称どんぐりクッキーを当時のクラスメイトに食べさせようとして事件になったこともある。
そんな私だ。在宅現場で、福祉用具を置くには難しい環境やリハビリの場面でどうにかしたい!という気持ちがよくわきあがる。
そして100均やホームセンターでなにか使えるものはないかと探すのはルーティンになっている。
しかし、上には上がいるもんで、日曜大工の好きなご家族の作ったものが本当にさすが!なのである。
ちょっとの工夫でこんなにも生活が楽になるのか!?と本当に勉強になるばかりだ。
私が今までの在宅現場でさすが!と思った福祉用具の使い方やDIYをいくつか紹介したい。
1人目は目が見えずひとりで生活をしていたAさん。
屋内の移動はベットからトイレまでの移動になるが、そこでの転倒が多かった。
そこでAさんは腹を括った。その名も『ベストポジションバーによる竹薮作戦』
これでもか!というほどベストポジションバーを家の中に建て、トイレまでの動線の安全を確保したのだ。まるで竹取物語の竹薮のようになった部屋。それにより転倒は格段に減った。デメリットは同居者がいたら邪魔で仕方ないこと。幸いにAさんは一人暮らしだったため、特段問題はなかったのである。
2人目は床のものを拾えないBさん。
福祉用具ではマジックハンドとか、リーチャーとか床のものを拾うためのものは販売されているが、「そんなハイカラなもの私には使えん!」というBさんは『火バサミ滑り止めシート作戦!』選択した。使い慣れた火バサミの先に、滑り止めシートを巻いてつかみやすくした。確かに使い慣れた火バサミの方がしっかりとつかめそうだ!デメリットは滑り止めシートに埃がたくさんつくこと。定期的に滑り止めシートを交換しないといけないことだ。
3人目はこれぞDIY!家の構造に合わせてスロープつくったCさん。
奥様が脳梗塞を患い車椅子生活となってしまった。外に出るにはスロープを使わないと出れない。しかし家の構造にベストマッチしたスロープがなかったのだ。
ディサービスに行くのに車椅子を男2人がかりで持ち上げますか?なんてケアマネと話してるなか、旦那様はなんとスロープを作ってしまったのだ。しかも機能的で、しっかり蝶番もつけ収納もコンパクトにできる強者。さすがである。
まだまだこれぞ!という方はたくさんいて本当に勉強になる。
たしかに安全基準を問うとDIYで作ったものは大丈夫か?と不安にはなるものもあるが、私は病気を患ったことで生じた生活の不自由さをなんとかしようと考えて実行するその気持ちを尊重したいし、大事にしたい。
生きる、生きていくというのはそういうことだと。思うのだ。
さて私のDIYの話に戻ろう。
私が唯一自信をもって役に立ったのは、
手作り足台。
ジャンプとかマガジンとかの雑誌を何冊か重ねて、ガムテープで巻き巻きにして台をつくり、股関節が曲がらず上り框が登れない方への手作り足台だ。
へっ。それ?それだけ??
不器用な私はあれよこれよとアイデアは浮かぶものの、成功したためしがほとんどないのだ。この程度のものしかつくれない。唯一はその人の好みに合わせて雑誌を巻くガムテープの色を使い分けることぐらいだ。
どうか手先の器用なあなた。
私のアイデアを実現することを手伝ってくれないだろうか、、、?
2023.03.08
訪問4コマ漫画㉖『できる・できないの判断って?』
昨今、車の運転に関してニュースでもよく取り上げられている。
『車の運転は何歳までできるの?』と問われると、運転免許の取得は18歳から可能とは法律で決められている一方で何歳までできるという点に関してはルールはない。
いまは70歳以上の方々を対象に免許更新の際に高齢者講習の受講が義務付けられ、75歳以上の方は免許更新時に認知機能検査と高齢者講習の受講が必要とされている。
何をもってできるのかできないのか?その判断は難しく、同等のことはリハビリの現場でもよく考えさせられる。
その判断を誤るともちろん転倒や怪我、事故に繋がるのは言うまでもないが、私は常々その判断はただ危険を判断することだけではないと感じている。とても難しいと感じるのだ。
皆さんも街中でヨタヨタとあるきながらも1人で買い物などをしている方を見かけることがあるだろう。その時はどう思う?
『えらいねぇ。身体大変そうだけど自分で買い物して』なんて思うのではないだろうか?
他にも、「ダー○の旅」や「ポツ○と一軒家」などの番組で山道を歩いている高齢者を見ると、えらいねーとなるわけで、、、
しかし、一度専門家として関わるとどうだろか?
そのような状態だと『危ないから、買い物は誰かと一緒にいきましょうね。』となってしまうことが往々にしてある。
一方で、1人でできることが多いにも関わらず、どこか一歩踏み出せず、誰かがいないと何も始まらない方もいるのも事実なわけで、、、
ではなぜ、そのような事が起こってしまうのか?
それは本人ないし家族の『危ない!』に対する価値観も影響しているのではと思う。
その価値観は例えば、転ぼうとも「やりたい、やらなければ」という想いが強ければどんな状況でも自分でなんとかできれば頑張るわけで、、、
一方で、一度転んで痛い想いなどしたら、私は1人ではできないという気持ちにもなるわけで、、、できる事もできない!になってしまう事もあるわけで、、、
その判断は非常に難しい!!!
ちょっと話は変わるが、理学療法士ってなんなんだろう?と悶々と考えた時期があった。
筋トレは誰でもできるし、歩行介助とかも家族や介護士もできる。ではリハビリ専門職として私は何が特別なんだろう?と考えた時期があった。
その時、たどり着いた境地に(果たしてその境地は正しいのかはわからないが)個々人の身体機能、生活動作、住環境環境、生活予後予測などに関して評価ができるのが理学療法士としての強みではないかと思ったのだ。
それはただただ、できるできないで判断する事なく、本人、家族の心情や置かれた環境によってもしっかり評価、そして判断をするのが大切な事だと思うのだ。
私は理学療法士としてその人の人生を奪ってはならない。やりたいことに制限をかけてはいけない。むしろ、やりたいことを続けるための支援をしていくことも大切だと。
また、やらないことを否定してはいけない。やらないこと、できないことには理由があるわけでそれによって起こりうる身体的リスクを一緒に考えていることが大切だと。
先日、田舎に帰省した際に母と車の運転に関して話した。
田舎でも高齢者の運転に関しては問題になっている。しかし田舎はバスや電車はほぼ皆無。運転できなければ必要なものも調達することが難しいのが現状だ。
母は言った。
とある高齢の男性に関して昨今の運転事情から娘様息子様が車の運転をやめるように説得したそうだ。
するとどうだろう。
その高齢男性は、農作業で使っていたトラクターをつかって運転しスーパーまで買い物に行ったそうな。
またまたぁぁぁ。と、にわかに信じがたい。作り話にも程があると思ったが、母は続けた。
『○○スーパーに買い物行った時に見たのよ。そんな起点がきくなら、認知症じゃないかもね~笑』
たしかに、、、
買い物に対する意欲。
家族の想いを組んで、私はもし、ケアマネさんなどからその状況に関して相談を受けた時どんな返答をするか、、、
とても判断に難しい。。。。
※ トラクターは道路交通法で「小型特殊自動車(規格によっては大型特殊自動車)」に分類され、道路交通法のルールが適用される歴とした自動車です。
2023.02.15