訪問4コマ㉑『年齢の壁』
先日、利用者様のご家族より、和田秀樹先生執筆の『80歳の壁』という本を読んでいるんだ!とあった。
40歳の壁さえも乗り越えることができるのか⁉️と若干の不安を感じている私に、もはや80歳の壁など想像できない。
しかし一方で、この本がヒットし、多くの方の共感を得ているにはきっと理由があるのだろう。まだ読んでない私。読んでみよう!
さてさて私は、その80歳の壁を目前にした方やとうの昔に越えた方を日頃からお手伝いしている。
その人らしく人生を全うするということに注目すれば、地域包括ケアシステムに
『高齢者の尊厳の保持と自立生活の支援の目的のもとで、可能な限り住み慣れた地域で、自分らしい暮らしを人生の最期まで続けることができる』
というのが掲げてある。
私はこの考えに賛同する一方で、利用者様から聞く声に『ムーーーっ』と憤りを感じることも多々ある。
近年多くのメディア、雑誌、本に健康情報はわんさか沢山あり、新聞をめくれは『○○して長生き元気!』という感じの見出しの宣伝が多く見られる。そして元気高齢者を崇めるかのごとく紹介するテレビ番組も多い。
それを否定するつもりは全くないのであるが、それに振り回されている方もいるのが事実で、、、『昨日ポツンと○○家で90歳を超えた方が1人で○○して生活してたのよ。それ見たら私は情けない。』なんてションボリ話しているのを見ると「あの人は神に選ばれし特別な人なの。比べちゃだめよ。」なんて気休めの慰めの言葉をかけるしかない私にションボリしてしまう。
さて、ここで『自分らしい暮らしを人生の最期まで』とあるが、自分らしいとはなんだろうか?
私は、『訪問リハビリはその方の生活、人生を支援する』と常に考えており、身体機能のみに特化したリハビリの提供ではその方を幸せにできないと思っている。
そしてその人らしく生活するために大事な事との一つに『生きる役割』があるか否かではないか⁉️と感じている。
そしてその役割は『内的生きる役割』か『外的生きる役割』(hyodo造語)かによってその時々で対処が異なると感じている。内的生きる役割とは、損得などに関係なく、本人自らの思いが生きる役割になっていること。外的役割とは、社会的に与えられた役割がその方の生きる役割になってる場合と感じている。
例えば、自分のために毎朝ご飯をつくったり、ゴミをすてたり、趣味活動だったりは内的生きる役割であり、夫や妻という事柄は外的生きる役割だ。
高齢者にとって環境の変化は、認知機能低下につながるとよくいわれるが、環境の変化のなかに生きる役割の変化が影響していることを忘れてはいけない。例えば、長年一緒に人生を共にしていた旦那様が他界されたあと、しっかり者の奥様が一気に老け込んだ、認知機能が低下したというのはよく聞く話で、そんな時に訪問リハビリを開始した際は、ただただ身体機能のみにアプローチしただけではなかなか改善見られず、失った外的生きる役割に変わる他の『生きる役割』を一緒に見つけてあげるということが大事であると思うのだ。
もちろんその役割はその一人一人、生きてきた人生史が影響することは言うまではない。
私は田舎に90歳を超えた祖母がいるが、未だに鍬を持って畑にいき、抜かなくてもよさそうな雑草にも日々奮闘している。姿勢は長年の農業生活の影響で常にペコリと腰を90度に曲げ、手の指は節々が太くなりあさっての方向に変形している。一緒に住んでいる母は、それを制することなく、『鍬を取り上げたら一気にボケる。畑ん中で倒れとっても、それも仕方ない。』と言い切る。
学生時代はそんな母の対応を、冷たいやつだなー。なんて思ったりもしたが、今、在宅での仕事を従事するようになり、母の対応、祖母の生活はまさに、『自分らしい暮らしを人生の最期まで』に繋がるのではと感じるようになった。祖母は自由に自分の好きなことをし、好きなものを食べ、愚痴もこぼしながら、近所の噂話を聞きに友人の家にお茶を飲みに行ったりとしている。つまり生きる役割があるのだ。
いま私の前には、歩くことも歩行器使ってヨタヨタで腰も変形し、一度動くと、はーはーと息をあげている方がいる。それでも自分でゴミを捨てに行き、洗濯物を干し、お風呂掃除をしている。いや自分でやりたいとヘルパーの手伝いを断っている。
実はいつ転んでもおかしくない。
しかし、果たして、『危ないから』という理由でその方の生きる役割を奪うことは果たしていいのだろうか。
もちろん転んで骨折でもしてしまっては元も子もない。
私は理学療法士として、
・その方の尊厳と危険の境目を判断する。
・一つ工夫を加えてリスクを軽減するお手伝いをする。
・やりたい!という気持ちを尊重する。
むしろ身体が不自由になっても、年を重ねても『やりたい』という気持ちがあることに尊敬の念を抱く。
さて、目下アラフォーの私。遠いようで近い80歳の壁。そして目の前の40歳の壁。
その壁を乗り越えてきたご利用者様たちにぜひご教授頂こうと『40歳の時どーだった?』と聞く。皆の答えはこうだ!
『もう忘れちゃった』
そう、もしかしたら壁は乗り越えるものではなく、忘れるものなのかもしれない。
2022.09.27
訪問4コマ⑳『Aさんとのリハビリ』
私が在宅の仕事を始めることになったのは本当に偶然であり、自分が望んだわけではなかった。しかし結果として在宅の仕事にドハマリしている自分を客観的にみると、人生ってなんだかなぁなんて思うわけで。。。
この仕事をしてつくづく思うのは、島倉 千代子ではないが「人生いろいろ」だ。そして今私がお手伝いしているご利用者様方は先の戦争を経験し乗り越えて、激動の時代の流れを直に経験してきた方たちだ。
私にも90を超えたばぁちゃんがいるが、こんなにリアルな戦争の話を聞くことはない。
その時代に東京に住んでいたからこそ感じたもの、経験したことがあるのだなーと思う。
ご利用者様が話す戦争の話は、語弊があるかもしれないが「面白い」。それは戦争に対して各々考えてきたことや感じたことが違うだけでなく、その後の人生にやはり影響しているなと思うからだ。
さて、Aさんのお話だ。
Aさんは当時90代。娘様と二人暮らし。
癌の既往があり自宅で療養生活をしている。いまは特段問題はないが日中は娘様が忙しいため一人で過ごすことが多く、横になっている時間が多いため活動量が少ない。よって活動量を増やすべくリハビリを!と始まった方であった。
Aさんの身体機能は、一言で言ってしまえば「動かないだけで問題はない」やろうと思えばできる。つまりやらないだけ、、、だ。
私の持論でもあるが「心が動かなければ、身体は動かない」。
Aさんはまさに動かすだけの機能は持ち合わせているが、動くための原動力「ココロ」が動かないため活動量が減っている典型的な例であった。
訪問リハビリに携わっていて思うのは、病気や怪我などで身体機能が低下したご利用者様はリハビリに対しても意識が高い。一方で在宅でのリハビリの依頼は病気が起点ではなくあれあれ!?と身体機能が落ちた方も対象となり、そんな方はリハビリの必要性を感じてない方が多い。
Aさんも何を提案しても「今日はいいよー」の一点張りであった。
歩くことが1番の運動と考えるが、なかなか外に連れ出せない。まさにどーしましょ?という状態だ。子供騙しのようにアレコレ提案する私。もちろん、認知機能は比較的しっかりしていたAさんは私の子供騙しには乗ってくれない。
困った”(-“”-)”ってみた。趣味の話や好きな食べ物の話など。会話にはなるが、ただの会話に過ぎない。
いくつかの会話の中でAさんと戦争の話になった。Aさんは戦時中多くの経験をしてきた。当時の話を懐かしむように、昨日のことのように話す。
その一つ一つが教科書では学べないリアルな話。
外歩きを拒否するAさんとは思えないほど、言葉が溢れてくる。
私はAさんに、「また教えてください!」とお願いしてみた。
するとどうだろう。
次の訪問の時に、Aさんは当時の写真や大事に取っていた戦中の物を私に見せようと準備していたのだ。日頃動かないAさんから考えるとこれはすごいことである。
Aさんにとっては戦争という経験は人生に多大な影響を与え、そして伝えるという作業は「ココロ」を動かすきっかけであったのだ。
そして寂しそうに、いま生きることに執着はなく、多くの友人が一人一人と旅立ったことを話す。
私は思った。
ポッカリと空いた心の隙間を埋める術は今の時代にないのかな?
私はそれからAさんには『外歩きましょう!』と提案せず、本人の気持ちに沿うリハに変更した。
『今日はどうしますか?』と声掛けも変えてみた。
すると外を歩かなければという義務感から解放されたのか(私の憶測だが)たまに外に出るようになった。
それは車椅子を使ったりであったり、杖をついて少し歩いたり、本当にその時その時で様々だ。
しかし、一方でAさんの担当者会議の場面で、娘様からはもっとリハビリの時に外に出して欲しいという要望が聞かれた。少しでも元気でいて欲しい!という家族だからこその意見である。きっとAさんも娘様の気持ちはわかっているのだろう。その気持ちに応える事のできない自分に、情けなさも感じているのか何も言わない。
私はリハビリの現状を伝えた。その時その時のAさんの体調、気持ちに沿って介入していると。
その対応は活動量確保という目的からいえば達成してない。リハとして効果的な介入できているかといえばできてないだろう。
娘様からの返答は、、、
『その気にさせるのもプロとしての仕事ではないのですか?』
確かにおっしゃる通りである。
8月。戦争、終戦の話題がテレビで取り出されるころ。私は改めてAさんとのリハビリと娘様の一言が思い出される。
プロとして、専門職としての責任とともに在宅という環境では人としての対応が必要だというジレンマ。
人生いろいろ、在宅リハビリいろいろ。
私は今日も答えのない質問に頭を悩ませながら、多様性という如何様にも変化する在宅リハビリの面白さにアレコレと構想する。
そんな毎日に「イロイロ」と合いの手を自分で打ってるのである。
2022.08.17
訪問4コマ⑲『わたしは大女優!』
皆さんは『変面』という秘技をご存知だろうか?一度はテレビなどで見たことがあるかもしれない。
『変面』変面師が手や扇子を顔にかざした瞬間、瞼譜(お面)が次々と変わっていく。
私は在宅リハビリでは変面のごとくお面を変え、その方に合った対応ができるようになるべく心がけている。
そしてその面を付け替え、令和のオードリーヘップバーンよ!と自分に言い聞かせ、大女優の如くその役になりきるのだ(ちょっとオーバーだが・・)。
私にその気づきを教えてくれたのは、当時訪問看護ステーションで働いていたイケイケ看護師さん。ちょっとそのノリにはついていけない時もあったが、いつもムードメーカーで元気がそこら中からこぼれ落ちてしまうような看護師さんであった。
当時、週に一度ステーションの看護師さんとリハスタッフはカンファレンスを行っていた。カンファレンスは情報共有はもちろんのこと、各専門職で違った目線で見る、感じる利用者様の状態を共有し視野を広げる。そもそも経験の少なかった私は、在宅生活でどこに注目しているか?何の情報を共有すればよいのか?それを学ぶにも非常に勉強になった。
カンファレンスといえども、そんな緊張したものではなく和気あいあい!どちらかというと井戸端会議的な雰囲気で楽しく、そして時にシビアな話も交わされる時間であった。
そんな時であった。イケイケ看護師さんはこう言った。
『○○さん、昔懐かしいラジカセを見せてくれたのよ。そしたらさー、私に、得意げに使い方をレクチャーしてくれるのよ。私のことをラジカセも知らない若者と思ってくれちゃったみたい!いくつと思ってるんだろー!笑』
ドハーーーッ!と笑い声が上がる。
『私さぁー、だからラジカセも知らない20代を演じたわよー。そしたら、あの無口な○○さん、まぁ喋るは喋るは、別人みたいだった!』
ダハーーーッ!とまた笑い声が上がる。
その中で私はひとり『なるほど!』いいこと聞いた!と思ったのだ。
その時私はいつも感じていた。
なんか、ご利用者様の本来の姿を引き出せないなーと。。。
一緒に働く他のスタッフからは、ご利用者様生活の話がよく聞かれる。
在宅生活において私たちリハスタッフは、身体機能や日常生活動作を評価し介入する。もちろん大事であるが、そもそもの『生活』を知らなけれは、それはただの『リハビリのためのリハビリ』になってしまい、生活を営む・人生を生きていくためのリハビリには足りないのだ。
そのためにも「その人らしさ」を引き出す方法はどうすればよいのか?常に思っていたのだ。
女優を志した理学療法士の私は、さっそく現場で試してみたのだ。
Aさんは若い時に結核を患い、肺を少し切除。若い時は体力もあり特段生活に苦はなかったが、歳を重ねると共に呼吸が苦しくなり家でも終始酸素をつけて生活していた。元々、しっかりしたお仕事をしていたこと。そして本来の性格もあるのか、なかなかサービスが続かない状況であった。呼吸が苦しいとどうしてもイライラしてしまうことや気持ちふさぎ込んでしまうこともあるようで、介護する奥様もだんだん大変になってきた方だ。
ケアマネジャーからも『いい人なんですが、ちょっと難しい方で・・・』という紹介だった。
ファーストコンタクト!!!
むむっ、確かにガードが硬そうだ。
そしてなかなか生活像が見えてこない。
また呼吸器を患っている方は、とても苦しい思いをした経験からどちらかというとネガティブな発言が多く、実際にどのくらい生活でできているのかがなかなか判断しにくいこともある。
何を質問しても、『苦しい』や『○○するのは無理です』などの発言が多い。
そしてAさんは、病気の影響もありだんだん受け身になってるかな?と私は判断した。
しかし部屋に飾ってある置物や賞状、本棚を見てもきっと能動的に活躍してきた方であろうと私は思ったのだ。
そこで私が描いたシナリオは、理学療法士と利用者という立ち位置ではなく、先生と生徒というシチュエーションを描いたのだ。
リハビリをしながら私はだんだん理学療法士から生徒の役になる。
Aさんからこぼれる一言を瞬時にキャッチし、教えを乞う。
たまにはiPadを取り出し、リハビリそっちのけでAさんから教えてもらう事を一緒に調べたりして盛り上がる。
そんなやりとりをしばらくやっていると、、、
ベットサイドに座るだけでゼーハーセーバー言っていたAさんは、私のために先生役をやってくれることで(話すのに夢中で)以前よりも長く座ることができるようになった。
そしてどうだろう。まさかの出来事だったが、歩くのが大変でポータブルトイレを使っていたのに、家の中をキャスター付きの椅子でゴロゴロと座って移動し、トイレまで行くようになってしまった。
酸素のチューブは奥様がうまくさばいてくれる、夫婦の連携作業だ!笑
確かに危ないが、今までのAさんからは考えられないことだ。自分で考え実行したのだ。
それだけでもかなりの進歩だ!
そんなある日、ケアマネジャーから私に『Aさんのリハビリうまく行ってますね!先生何したんですか?』と聞かれた。
私は自慢げに答えたのだ。
『女優になったんです~!』
ぽっかーーん(;’∀’)のケアマネさん!笑
今日も私はその人らしさを引き出すべく女優となる。
リハビリの世界での、主演女優賞ももうすぐかもしれない。。。( ̄ー ̄)
2022.07.06
訪問4コマ⑱『幸福度の高い仕事が!?』
先日、ネットの記事で『幸福度の高い仕事』が書いてあった。
トップ5の中になんと、理学療法士が2位となっていた。びっくり!私が理学療法士になったころは『理学療法士ってなぁに?』と聞かれることが多く、大学の卒業旅行では、「○○大学 医学療法士様御一行様』と書かれていたことが今でも印象に残っている。
他の幸福度の高い職業との共通点として
・他人に対して「気遣い」をするかどうか。
・他人の人生を「守ったり」より良くできるかどうか。
・他人に「影響を与え」人生を変えたり可能性を広げたりするかどうか。
ということがポイントだそう。
自分の仕事を改めて誇りに思うと共に、『そうか、わたしは日々幸福度を味わいながら仕事をしてるんだなー』と感じた。確かに大変な仕事ではあるが、毎日充実感を味わってるのもウソではない。
さて、私の戯言を読んでいただいている皆様は今の仕事に就くにあたり何か理由やきっかけはあったのだろうか?
理学療法士や看護師など医療、福祉系の仕事を目指す方は、「祖父がリハビリをしているのを見学して理学療法士さんに憧れました」とか「○○というドラマを見て看護師を目指しました」とかそういう理由を聞く。
私はどうだったかと言うと、超健康優良児であった私は病院への関わりはなく、大学に入るまで「内科」と「外科」の違いも分からない世間知らず。また、幸いなことに祖父母も病気知らずのタフなヤローだったためリハビリという言葉自体も知らなかった。
そんな私も年頃をむかえ、高校でいわゆる進路を決めなければならない時期になった。将来何になりたい!なんて全くわからない。なのに進路を決めろって無理じゃねぇ?と思ってた17の夜。(バイクは盗んだことはない!笑)たまたま理学療法士という仕事を紹介したのが母であり、私が描く将来の条件としてイメージしていた
・体を動かす仕事(じっとしてられない性格のため)
・日々変化のある仕事(飽きやすい性格のため)
・誰かに感謝される仕事(ありがとうの一言でルンルン🎶になる性格のため)
にマッチしたため、理学療法士を目指し今に至る。
大学は憧れのキャンパスライフというよりも職業訓練校と言った方が適しているかもしれない。
日々理学療法士になるために勉強や実習を重ね、他の学部の人たちのキャンパスライフを指を咥えいいなーなんて思いもした。今となっては4年間でこの仕事の奥深さを学ぼうなんて、時間が足りないよな。。と思うくらいだ。
国家試験をなんとか突破した私は、病院に就職するやいなや、描いていた理学療法士とは違う自分の実力の無さに情けなくなり嫌になる日々を送った。
ここまでの話だと、「全然、幸福度低くない?」と感じてしまうだろう。確かにその頃の私は仕事に幸福度なんて感じてなかったし、先にあげた「幸福度の高い共通点」は仕事の中で見出してなかった。
では、何が変わったのか?どんな経験があったのか?
それは多くの患者様、利用者様からの言葉や行動、人生から学んだことが多かった。
・病院を退院して数ヶ月、さらに元気な姿を見せにわざわざやってきてくれた患者様。
・なんとか家に退院するまで辿り着いたのに、たった3日でまた入院となったガン患者様。
・私よりも何歳も年上の大人が、病気を患い葛藤している姿をそばで見た時。
・目標を達成してイキイキした顔した利用者様!
・難病を患い落ちていく自分の身体。リハビリをしながら、静かに涙を流している利用者様の強さや弱さを感じた時。
・「ベストポジションバー」を1本自宅に導入するのに大喧嘩した利用者様との思い出。
・介護する家族の思いに触れた時。などなど。
思い出せば沢山、本当に沢山の経験をした。そう、私自身がこの仕事を通して得たもの、感じたもの、変わったことが本当に多かったのだ。
そして今日もこれからも、きっとまた得ることが多く、私の人生が変わっていくだろう。
改めて思う。幸福度の高い仕事とはと。
私は思う。他人に影響を与えるだけではなく、きっと自分自身も影響を与えられることが私の幸福度なのかなと。
私は、ある方から
『○○の○○は美味しいから食べてみて。』といわれ食べてみた。
美味しい。
私の人生観は変わった。
たったそんなやりとりを仕事の中であるだけで幸せを感じる私は、かなりの単細胞なのかもしれない。
2022.06.15
訪問4コマ⑰『桜の頃』
このコラムを書いてる頃にはすっかり桜も散ってしまい、葉桜満開といったところであろうか。
今年も何人かのご利用者様を外に連れ出し、桜を鑑賞した。
花のチカラはすごいもので特に『桜』は日本人にとって特別なものなのかもしれない。あんなに外に出ることを嫌がってたご利用者様も『桜見に行きましょう』の一言で重い腰をどっこらしょ!と持ち上げるのだ。
また来年もお世話になることにしよう。
そんな桜効果を目の当たりにすると、そーいやあの時も桜のお陰でいい思い出ができたなぁと思い出すことがある。
Bさんのことだ!
Bさんは小脳梗塞を患った。奥様と自宅で生活をしもう数年。お互いに少しずつ歳を重ねて、いわゆる老々介護になっていた。
さてさて、皆さんは「小脳」の働きをご存知であろうか?
小脳の働きは簡単に言うと、身体の動きをうまーく調節する役割である。
皆さんはきっと何も苦することなく、目の前のコップに手を伸ばしたり、立ち座りする時に上手くバランスを取ったりできるであろう。
小脳に障害を負うと、コップを持とうとすると手が揺れてしまってうまく持てなかったり、立とうとしても上手く立ち上がれなかったり、立ち上がったあとバランスを崩しそうになったりする。
Bさんもそんな小脳のイタズラにて、転倒しないようにと日々気をつけながら生活を送っていた。
そんなBさんのリハビリの目的は外で歩くこと。
近所の公園まで車いすを押して行き、公園内を4点杖を使って一周歩いて、帰りは車椅子に乗って帰る。
上手く上肢の力加減ができないBさんは車いすを押すのにも注意が必要だ。うっかり力を入れすぎて、前輪が持ち上がってしまったら大変だ!ということで、コンクリートブロックを座面に置いてオモリとし、転倒しないように工夫して歩く。そして4点杖でさらに歩き、帰りはそのブロックを膝の上で抱えてもらい、私が後ろから押すというスタイルをとっていた。
多少暑かろうが寒かろうが、雨がザーザー降らない限り歩行練習は欠かさなかった。
Bさんは無口だった。小脳梗塞にて上手くしゃれべれなくなってしまったこともある。リハビリ中も必要なこと以外はしゃべらない。
奥様も、リハビリで今日も無事歩けることに安心を覚え、今日は少し疲れ気味で帰ってきた様子を感じ心配する。ということを繰り返していた。
そんな桜の咲く季節の頃。
なんとなくの会話の中で「最近花見した?」という流れになった。病気を患ってからなかなか花を見に行くことがなかったようで、首をブンブン左右に振っている。
「じゃあ今日は桜見に行きましょうか?」
と問いかけると、、
「いく!!!!!」
と大きな声で返事をしてくれた。
小脳梗塞を患うと声の出し方も上手くいかない。音量を調整することが出来ず急に大声になることがあるのだ。
Bさんも声量調節が上手くできずびっくりするくらい大きな声だったが、その声には行きたい!という気持ちがこもっているのは、こんな私でもよく分かった。
奥様も誘っていざ花見へ。普段はリハビリ中は家で待ってる奥さんも、是非一緒に行きたいと準備をし出かけた。
行った先にはちょうど満開に咲き誇った桜が。
『綺麗』とどもりながらもBさん。
普段は転ばぬようにと足元ばかりに目線がいってるが、今日ばかりはずーっと上をむいて眺めていた!
「来てよかったですね」と私。
ブンブン首を上下に振る。
「写真撮ろっか!?さぁお母さんも!」
桜をバックに夫婦の写真を撮ることにした。
「はいチーズ!」
カメラを(携帯のカメラ)を向けると、なんとBさんがピースサインでポーズをとっている。
普段見せることのない素振りに私はびっくり。カメラを向けるとピース✌️する人だったなんて。
写真は最高の出来となり、私は印刷して翌週のリハビリの際にプレゼントした。そしてさらに翌週には奥様がしっかり写真盾にいれて飾ってくれていた。
「夫婦で写真を撮るなんて何年ぶりかしら。ねぇパパ!」
奥様はすごく喜んでくれた。旦那様はニコリともしない。既に歩行練習モードになっており歩きに行くぞとばかりに目線を送る。
いつもと変わらないBさんだかとても喜んだ様子はこんな私にもわかる。
桜のお陰で、Bさんの意外な一面と夫婦の思い出を作ることができ、私は大満足と共に桜に感謝!
私が訪問リハビリにどっぷりとはまっている理由の一つに「利用者さんの普段見せない顔に出会えること」がある。何とも言えない嬉しい気持ちになるのだ。
それは私のチカラだけでは無理で桜だったり、家族だったり、お孫さんだったり。
Bさんは今日も歩行練習をする。転倒しないように気をつけながら毎日を送る。
またBさんの違った一面が見られないかと、そばで作戦を練る私。
桜は既に葉桜満開となっていた。
2022.05.05
訪問4コマ⑯『グルメだったこと』
最近の出来事だ。
なんでも食べ始めた一歳の息子。シシャモを出すとまぁパクパクと食べてくれた。嬉しくなった母(私)は調子に乗り、ちょっとお得なたくさん入って割安のシシャモを買ってまた食卓に出した。
するとどうだろう。。。
前回と違ってひと口食べると口を横一文字にし、首を横にブンブン振って『NO』をアピール。挙句の果てにシシャモの卵をばら撒きまくる!という、、、
なぜだと思った私はシシャモをひと口食べた。うん、たしかにお得用のシシャモは前回のシシャモと比べて味が劣った。
違いのわかる1歳児、先が思いやられる( ;∀;)
そんな息子とのやりとりをしながら、ふとAさんのことを思い出した。そう、Aさんも息子と同じグルメだったのだ。
Aさんは入院中に胃ろうを造設し経口摂取をすることは難しいと判断されたが、息子様の想いもありお楽しみ程度に毎日何かしら口から食べている方であった。
病気のため発話少なく、コミュニケーションは頷きにてとっていた。YES・NO質問のクローズコミュニケーションでのやりとり。そして元々、おしゃべり好きな性格ではないようで気が向かないと頷くこともない。
そんなAさんのお楽しみの食事は、ほんの少し。ペーストにした果物やおかずを少しずつゆっくりと食べる。
介護する息子様も慣れたもんで、食材によってどんな感じにペーストになるのか、とろみのつき具合など良く研究されていた。
そんなある日の出来事。
Aさんはバナナを食べたそうだ。するとどうだろう。ひと口食べると、もういらないと言わんばかりに口を開けてくれなくなったそうだ。
はて、と思った息子様。今日は食欲ないのかな?と思ったと。
そして他の日、桃を食べたそうだ。
すると同じようにひと口食べて、口を開けてくれなくなったと。
おかしい。嫌いなのか?
いや違う、前もバナナ、桃しっかり食べてくれた。。。
そして研究熱心な息子様はその謎を解き充てたのであった!
バナナは一本150円くらいの高級バナナ、桃は旬の桃は食べたくれたと。フサで売ってる割安のバナナや桃缶の桃は食べてくれなかったことにたどり着いた。
なるほど|ω・)
そりゃお楽しみ程度、毎日少しの量を口から食べることが楽しみ!
美味しいものを食べたいに決まってる!
Aさんの研ぎ澄まされた味覚は瞬時に美味しいもの(高いもの・安いもの笑)を判断していたのだ!
QOLならぬ、QOM!
Quality of Meal 食事の質だ!
Aさんは身体の自由がきかない分、誰かにやってもらう(介護してもらう)ことで毎日過ごしている。
私たちもリハビリをすることが前提となっているが、そこに本人の意思があること、どんな気持ちでいるかを忘れてはならない。
そしてそんな気持ちを引き出せるよう、アウトプットできるような対応、関係性を作り上げることがとても大事だ。
関係性を築き上げるべく、リハビリ中は終始おしゃべりしてしまう私はいつもAさんに一方的に話しかけている。
私『今日は元気?』
Aさん「うん(頷く)」
私『美味しいものたべた?』
Aさん「うん(頷く)」
私『面白いことあった?』
Aさん「うん(頷く)」
私のおしゃべりにうんざりしたのか?Aさんは何にでもうんうんと頷く。
イジワルしてやろうっ!と悪い心が働いた私(´ω`*)
私『高いツボ買う?』
Aさん「NO(首横に振る)」
私『げっ、騙されなかった!』
Aさんはニヤッと私を睨む。
まだまだ一枚上手のAさん。
まだまだ修行が足りないのは私の方であった。
— 完 —
produced by hyoudou
2022.04.04
訪問4コマ⑮「果たしてそれは認知症?」
訪問リハビリという仕事をしていると、折に触れて『認知症』の方をお手伝いさせていただく。メディアでも多く取り上げられ、医療、介護の仕事に従事しておらずとも認知症に関しては誰しもが関心があったり、近しい人の介護などの経験から以前よりも身近になっているのではないかな?と思う。
『認知症の人の意思が尊重され、出来る限り住み慣れた地域の良い環境で自分らしく暮らしを続けることが出来る社会を実現する!』という、新オレンジプランにもあるように、認知症への理解や活動は盛んだ。
私自身、日々の仕事やRUN伴などへの参加を通して認知症の方への勉強や理解を積み重ねてきた。
しかし、Fさんご夫婦のリハビリやお手伝いを通して私は認知症に対して新たな視点を得ることになったのだ。
私がお手伝いをしていたFさんご夫婦は二人暮らし。娘様方も遠方在住のため交代でお手伝いにきてくれるが、基本お二人で生活をしているとても仲睦まじいご夫婦であった。
出会った当初、旦那様は90代。奥様も80代後半。いわゆる老老介護の状態であった。
お手伝いをさせてもらった旦那様は、外に出るのが億劫でありディサービスなどの通所系サービスを拒否されていたため、訪問リハビリを紹介され、お手伝いすることとなった。
出会った当初より旦那様は認知症の兆候が色濃くでていた。
リハビリ中の会話も、壊れたラジカセのように何度もリピート。同じ話を繰り返す。何度も何度も。
もちろん私の名前を覚えることもなく(きっと私が何者であるかもわかってないだろう)日付や昨日の出来事も覚えていない。
お風呂も拒否し何週間も入らないこともある。『今日はお風呂入ろうね~』と奥様がお風呂の準備をしても、急に心変わりし入らない!と拒否することも少なくない。
奥様の姿が見えないと不安になり『おーーぃおーーぃ。』と呼ぶこともおおく、洗濯物を干しに行く、ゴミを捨てにいくという時も『今から○○しに行きますからね!』と伝えるがすぐ忘れて『おーーぃおーーぃ。』が始まるのだ。
毎朝飲む薬もなかなか飲まず『これは毒なのか!?』『毒じゃありませんよ。薬なので飲んでくださいね。』
というやりとりは毎日のお決まり。
判断力も低下しており、リハビリの計画書のサインをもらうにしても『ここに名前かいていいの?』から始まり『これ書いたら何から悪いことに使うの?』など名前をいただくにも一悶着、二悶着ある。
ご飯もなかなか食べないため、奥様も『作りがいがないのよぉ。』とこぼしておられる。
暴れたり、暴力をふるったりという攻撃性はなかったものの、客観的に大変だなぁ。と感じていた。
さて認知症と聞いて皆さんはどんなイメージを抱くだろうか?ポジティブなイメージよりも、きっとネガティブなイメージが先行するのではないだろうか?
・大変だなぁ。
・家族に迷惑かける。
・私は認知症になりたくないな。
私が訪問リハビリの仕事を行ってても、お手伝いするご高齢者様から『自分のことが自分でできなくなったら生きている意味がない。』という言葉が良く聞かれる。言い換えれば『認知症になったらおしまい』ということであろうか?
さてさて、Fさん夫婦の話に戻ろう。Fさんはそんな認知症の兆候がありながらも、とても穏やかで楽しい方だった。そして、私が大変だなぁと思う反面、奥様の素振りからは大変さは感じられなかった。
長年連れ添った夫婦だからこそなせる空気なのか?昭和を生き抜いた夫婦だから絆が強いのか?なんて思っていたりした。
そんなFさんとの付き合いは、なんと4年あまり。そして最期までお手伝いさせてもらった。
落ち着いた頃、奥様と旦那様のことについて話した。奥様からは意外な言葉が聞かれた。
『パパはなかなか大変だったけど、認知症じゃなかったからね。』
んん!?
私が抱いていた旦那様像と奥様が思っていた旦那様。
奥様は旦那様の事を、認知症とは思ってなかったのだ。
認知症に対する勉強や理解を積み重ねたことでうっかり忘れていたことがあった。
そう、一人一人には生活があり人生があることを。
ついつい勉強に走ると症状ばかりに目が向き、最善の対応を模索する。
私は奥様の一言で、新オレンジプランにも掲げてある、『認知症の人やその家族の視点の重視』ということを改めて考えるきっかけとなった。支援者が大変だなと客観的に感じ評価したとしても、支える家族が困ってなければそれは問題点ではないのかもしれない。逆を言えば、我々支援者が「まだまだ大丈夫」と評価しようとも本人や家族が困っていたら、それはしっかりと向き合うべき課題である。そう思えるには、人生という長い時間が影響するし、日々の生活が左右するだろう。
我々は専門職としての責任がある。
しかし、専門職だからこそ見逃してしまう事、忘れてしまう事がある。
ある日遠方からお手伝いに娘様がきていた。Fさんと奥様は毎度のお約束、お薬は毒なのか?のやりとりをやっている。
そばで見ていた娘様はおもむろに奥様に
『たまには本当に毒いれてみたら?』
とサラッとおっしゃっていた。
爆笑。。。
これこそが『住み慣れた良い環境で自分らしく暮らしを続ける』ポイントなのかもしれないな。
— 完 —
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2022.03.07